その1 26期連続増収増益の超優良企業


ニトリ


猛暑の夏。読書の夏ですね。
書評が溜まってきたのでご紹介しましょう。


ご存知「ニトリ」の物語です。
「経営戦記」という副題の通り、「ニトリの戦いの物語」ですね。


ニトリは「26期連続増収増益」であることはご存知でしょうか?
こんな企業本当にないですね。
平成25年2月期決算で、売上高3488億円前期比5.4%増。
営業利益も6.2%増の616億円。
すごいですね。
どうして、「26期連続増収増益」なのかこの本を読むとよく分かります。
その秘密が紹介されているからですね。
この本は定価1680円! まさに「お値段以上 ニトリ!」


結構読み応えがありますが、読めば読むほど、ニトリの秘密が
よく分かります。
実は前からニトリの経営戦略に非常に興味があったのですね。


サイゼリヤを取り上げてから、ニトリのことも気になっていたのです。
こちら


どうしてかというと、サイゼリヤとニトリの経営コンサルタントが
同じだったからですね。
その経営コンサルタントとは渥美俊一氏。
日本のチェーンストア協会を作り上げた方で、
イトーヨーカ堂やダイエー始め、名だたる有名チェーンの指南役として
非常に有名な方です。


でもこの渥美氏は一番ニトリに肩入れしていたようにも思います。
その渥美氏との出会いから、熱烈指導ぶりが非常に面白かったですね。


こういう指導者がいることで企業は成長するのでしょうか・・・。

 

ニトリの社長は似鳥昭雄氏。
昭和19年3月5日、樺太生まれです。
父親は北海道に開拓民として本州から渡り、なかなか苦労された方のようです。
闇米の行商から土木会社の経営など


経営者の本をいろいろご紹介してきましたが、
この生まれ育った環境というのは大事なのですね。
小学生のころから、自転車で米の配達をさせられます。


商売人であったご両親から、小さい頃から、「商い」というものを
身を持って叩き込まれたのです・・・。


題名のとおり、学校の勉強はサッパリ。
まさに落ちこぼれだったのかもしれませんが、
「商いの英才教育」を受けていたのは事実だと思うのです・・・・。





その2 本当は歌手になりたかった!


「立派な経営者を育てるには幼児教育が大事。」


これは誰も言っていない私の持論です。
サラリーマン家庭から立派な経営者が生まれにくいと
またこれも私がよく言っていることですね。


商売人であった両親から、小さいうちから「商売」をタタキこまれます。


かつてニトリに勤めたことのある、同級生の計良氏は


「現在の商売人として、そして理想を求める起業家としての
似鳥を形作っているのは、似鳥の両親の影響だ。」
そうハッキリ言っています。


特に母親の存在も大事なのですね。
似鳥社長の母親は根っからの商売人だったようです。


題名のように「落ちこぼれ」で勉強の方はサッパリだったようです。
でも高校生の頃から、父親の稼業である土木会社を
手伝わされます。


でもその手伝い方が面白い。
高校生が時給いくらで働くのではないのです。
高校生が土木工事を「請け負う」のです。友人数人を引き連れ
父親から仕事をもらう仕組みで働いたのです。
まさに商売の英才教育だと思いませんか?


土木工事の直請けは高校時代から大学時代まで続いたそうです。
父親の立場としては、将来の後継ぎとして仕事を教えたかったのでしょう。
でもビジネスを身を持って教えたのかったのではないかさえ思います。


それとこの似鳥社長が一番面白いと思ったところ。
これは驚愕の事実ですね。


大学生になった頃、なんと
「プロの歌手を目指して、歌手の養成所に入ったそうなのですね。
その後、さらに本格的に作曲家に個人レッスンも受けます。
レッスンが半年も続いた後、ついにプロデビューします。
札幌の歓楽街、ススキノのナイトクラブで専属歌手となったそうです。
すごいですね。
大学時代は、確かに勉強そっちのけで、働きます。
収入は同世代の普通のサラリーマンの2倍もあったそうです。
こういう経験がのちの経営にプラスになったのでしょうか・・・??
少なくとも大学時代の勉強は多分真面目には
していなかったはずですね。

 

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そういえば先月似鳥社長がCDでデビューしているのですね。
なんと演歌歌手の川中美幸さんとデュエット曲を出しています。
上場企業の社長さんとしては大変珍しいの
ではないでしょうか。


やはり「経営者もお値段以上!?」
聞きたい方は こちら




その3 23歳で起業


昭和41年4月、大学を卒業した似鳥社長は、
家業であった土木会社に就職します。
でも土木の仕事は合わなかったようですね。
すぐ家出同然で、札幌の広告会社に住み込みで働きます。
でも初めての営業職でまったく成果が上がらず、半年でクビ。
土木会社に戻ったものの、結局は長続きせずすぐ退職。
この時まだ23歳。
ハッキリ書くと社会人でも「落ちこぼれ」


普通なら定職を探すのでしょうけど、ここでなんと開業を決意します。
昭和42年12月25日、札幌市西区の30坪の土地に
「似鳥家具店」をオープンさせます。


土地は父親名義の土地だったらしいですが、
これが現在の巨大チェーン、ニトリの原型です。
でもどうして彼が家具店を思い立ったかというと、
「周りに唯一なかったのが家具屋だったから」


実に面白いですね。
最初の看板には、「似鳥家具卸センター 北支店」


「卸」と書くことで「安い」イメージを与え、「北支店」と書くことで
いかにも他に本店があるように見せるため・・・。


でもそんな小手先のことはやはり通用せず、売り上げはサッパリ。
商売はそう簡単ではないですからね。
三ヵ月間、朝昼晩とも一袋15円のインスタントラーメンを食べ続け
最後には栄養失調で、脚気にもなったそうです。


早くも「似鳥家具店」倒産の危機。
ここでどうしたかというと、両親の勧めで、
「お見合い」をしたそうです。
こういうこと書くと怒られそうですが、似鳥社長の両親から、
こう真面目に言われたそうです。


「いまの状況で社員を雇うカネもないだろう。お嫁さんがいれば
ただでいっしょに働いてくれる。ご飯も作ってもらえる・・」


お見合い8回目で現在の奥さん、十河百百代さんと出会います。
これもまた怒られそうですが、百百代さんは
「足が太くて働き者に違いない」
と両親が強引に決めたそうです。


商売人であったご両親のおかげで、生涯の伴侶兼ビジネスパートナーを
見つけてくれたのですね。
ご両親の見込み通り、奥さんの抜群の接客力で売上を伸ばします。


一カ月40万円だった売上が、結婚後100万になり、1000万になり
ついには3000万円にもなったそうです。
奥さんの強烈な営業力で、ニトリの原型を作り上げていったのです・・・。


奥さんもまさに「お値段以上!?」





その4 28歳で挫折


Photo_nitori

(写真は私がよく行くニトリ成増店)



ニトリを通じて何を言いたいのか先にアップしておきましょう。


「落ちこぼれでも、どうして成功したか」これを学んでいただきたいから
なのですね。


経営者本をこれまで永年にわたり、ご紹介してきました。


成功する経営者は必ずこの三点をクリアしているのでしたね。
私が結構しつこく言う「MMT理論」

M=Mother(母)
M=Meet(出会い)
T=Take The Chance(チャンスを掴む)


この三点が大事なのでしたね。詳しくは こちら
この理論に基づいて、この似鳥昭男氏を検証してみましょうか。


M=Mother(母)
M=Meet(出会い)


これは、もうご紹介しましたね。
お母様も立派な経営者でした。
M=Meet(出会い)は冒頭ご紹介した渥美俊一氏に
33歳で出会い、生涯の良きアドバイザーとなり、さらには
ニトリ発展の最大の立役者となったのでした。


でも、ここで申し上げたいのは、T=Take The Chance(チャンスを掴む)
ですね。
ニトリ発展でどの段階でチャンスだったのか・・・。
これが難しいのですね。
ニトリはチャンスをものにし、急激に発展したのでは
なさそうなのです。


実は「ピンチ」の連続だったのではないかと思うのです。
でもそのピンチをチャンスに変えて、乗り越えてきたのですね。
この点をぜひ学んでいただきたいのです。
私独自の「ニトリ論」かもしれませんが、これは感じますね。


23歳で開業し、内助の功で発展し、創業からわずか4年で
2店目を出し、「郊外店の先駆け」ということで
売上数億、青年実業家として成功してしまったのですね。


でもこの段階で確固たる経営理念があったとは思えないのです。
開業5年目の28歳。毎晩ススキノで飲み明かしていたそうです。
内緒ですが、愛人までいたそうです。
この頃初めて税務調査が入ります。ただその時まで無申告!
これは税理士として敢えて指摘しておきましょう。


申し訳ないですが、「チャランぽらんな」経営だったのですね。
でもここで、「ピンチ」が急に訪れます。

競合店が似鳥家具の繁盛ぶりを聞いて、近くに5倍の広さで
出店してきます。
やはり経営はそう簡単ではないのです。


客足はパッタリ止まり、銀行にも見放されます。


「夜逃げをするか、自殺するか・・・」
そこまで追い詰められたそうです。


うつ状態に陥り、「どうやって楽に死ねるか」
寝ても覚めても考えていたそうです・・・。
(これは本当に衝撃の事実ですね)





その5 流通のタブーへの挑戦


自殺しそうなくらい落ち込んだ似鳥社長でしたが、
奥さんの一言で立ち直ります。


「あんた、贅沢よ。そんなどうでもいいこと考える暇があったら、
もっと働きなさい!」


なかなかの女傑だったみたいですね。
こんな一言も紹介されていました。


「男の人は、表に出たら七人の敵がいるというから、
七人の女を作りなさい」


参りましたね。ニトリ発展の理由はこの奥さんですかね!?


相前後して、似鳥社長はアメリカ研修旅行に参加します。
この時まだ28歳。この研修セミナーでアメリカの豊かさを実感します。

「やがて日本もアメリカ並みの豊かな国になる・・・。」

Terautikanntarou

 


そう思ったらしいですが、この時は昭和47年頃。
私も覚えていますが、ちょうどこの頃、
TBSの「寺内貫太郎一家」というドラマがありましたね。
ちゃぶ台で一家全員が食事するという・・・。


欧米のように、絨毯でソファーのような洋家具に囲まれた生活は
まだまだ先のようだった気がします・・・。


それよりこの一言にハッとしました。


「日本の家具メーカーや問屋が川上にいる。川下にいる小売店は、
メーカーや問屋に言われた価格で製品を仕入れ、客に売るだけであった。
しかし、アメリカは、原材料の調達から企画設計まですべて
小売店で一括し、価格を自分たちで決める・・・」


これに似鳥社長は気が付いたのですね。
日本の家具ビジネス、それだけでなく物流に従事している人なら
分かるでしょう。
「上代(じょうだい)、下代(げだい)」という専門用語をご存知でしょうか?
まさにこれなのですね。


例えば、テーブルを例にしましょう。
小売店で10,000円で売られているテーブルは10,000円が上代。
小売店は仮に6,000円で仕入れているなら6,000円が下代。
これはテーブルを作っている家具メーカーや問屋がつけている値段
なのですね。


お客さんはそのテーブルを気に入ろうが気に入らなくても
10,000円でしか買えないのですね。


ただもっと補足すると、(こんなことはこの本にもかいていませんが)
家具メーカーは実は原価は1,000円くらいで作っているのですね。
テーブルの材料の原木の値段なんてたかが知れていますよね。
実際は工場の経費や人件費を加味して、3,000円くらいで
一次問屋に卸しているのですね。
それを二次問屋に4,000円で卸して、さらに三次問屋に5,000円・・・
結局小売店まで到達するまでに6,000円になっている・・・。



これが日本の伝統的な物流の仕組みなのですね・・・。
それに似鳥社長は気が付くのですね。
まさに革命的なお話なのですが、このルールを犯すことは
日本の伝統的なビジネス感覚では絶対タブーのことです・・・。





その6 福岡の大川市まで


似鳥社長に「ベンチャー・スピリッツ」を本当に感じますね。
この時まだまだ30代前半。若くて怖いもの知らずです。
「業界の掟」に果敢に挑んでいきます。


北海道は木材の産地ですね。そうなると家具メーカーが多いことは
容易に想像できますからね。
その家具メーカーに「問屋をすっ飛ばして」直接取引しようとします。
昨日の例でいえば、問屋から6000円でしか仕入れられなかったテーブルを
「3000円で卸してくれ」と、メーカーに直接行くことなのですね。
でもまさに「掟破り」
北海道は雪が多く特に1月、2月は、家具メーカーはその在庫品に
悩むのですね。輸送も保管のコストもばかにならないですから。
そこで、「現金取引で」その家具メーカーから直接取引したのです。


最初は、問屋に内緒でメーカーも取引していたのですが
いずれバレます。
問屋から激怒されたニトリは、ついに問屋から「取引停止」になるのですね。
これから、業界との戦いは延々20年も続くことになります。


北海道のメーカーと取引できなくなったニトリは
本州に渡り、新潟県、群馬県、静岡県としだいに南下していきます。
行くたびに「業界の掟破り」ということで、問屋を怒らせていくのですからね。

 

Ookawa

 

 

ついには本州もあきらめ、九州に渡ります。
福岡県大川市が、日本一の家具、建具の生産高を誇る家具の聖地で
あることをご存知ですか?


「さざんかの宿」のヒット曲で知られる歌手の大川栄策。
名前の通り、福岡県の大川市出身なのですね。
昔、テレビでよく特技の「タンス担ぎ」をしていましたね。


ついにニトリは、この大川市のメーカーとの取引をすることになったのです。
本当に、大川市の家具は質も良く、低価格だからなのですね。


九州から北海道までの物流コストはバカにならないと思うでしょうけど、
その分、問屋への支払いがないので十分採算があうのですね。


さらに九州からの供給体制も、ある物流センターの運送会社に
集約させ供給体制も確立していきます。

まさに、業界との戦いの上作り上げた「家具業界の画期的新体制」。

もちろん、ニトリが最初です。
実は現在も、ニトリの家具は大川市で作られたものが大半なのだそうです。


だから、似鳥社長の「オハコ」は間違いなく、
「さざんかの宿」でしょうね・・・!?




その7 流通業界を変える


「小売店がメーカーと直接取引をする」ということは
どういうことか、もう一度「しつこく」説明しましょう。


例えて他の業界でいうならば、
ゼネコンの下請け業者が元請を飛ばして仕事を直接取りに行く・・・。
大手広告代理店の下請け業者が元請の代理店を飛ばして
仕事を直接取りにに行く・・・。
そんな感じですが、まさにどの業界でも「掟破り」
まさに「タブー」なのですね。
簡単にいえば、業界の秩序を乱すことにもなるのですね。


家具業界でいえば1000円で作られたテーブルが、
確かに流通過程で6000円になってしまう・・・
でも家具とは輸送が大変ですよね。
しかも保管のコストもばかにならない・・・。


問屋としても、流通の過程における保管コストや輸送コストを
価格に乗せないと商売が成り立たないのですね。
「問屋をすっ飛ばす」ということは問屋の仕事、つまり、
輸送や保管に従事している人の仕事を奪うことになりますしね。


ただ、価格を下げるという意味で、これを思い切って断行したのですね。
これこそ「常識を破る非常識」


ここで、読みながら自分のアルバイト体験を思い出しました。
今から30年以上前のことですが、学生時代によく家具問屋の
バイトしたのですね。
扱う商品はじゅうたん、カーペット。
あの頃はライフスタイルの変化の影響で、こういう商品がよく売れていたのです。
じゅうたん販売は得意でよくやりましたね。
大川栄策の「タンス担ぎ」ではないですが、今でもじゅうたん3本くらいは
楽に担げますよ!?


問屋さんは、ホームセンターのバーゲンがあると
トラックでじゅうたんを大量に運んで
店のハッピを着て店員の手伝いをします。
閉店になると売れたじゅうたんの補充をして帰るのですね。


結局問屋さんは何をしていたかというと、
じゅうたんの輸送と保管、さらには販売までしていたのですね・・。
まさにこれだったのです。
当然ですが、問屋さんのコストは、すべて販売価格に跳ね返っています。


学生時代によくやった理由は結構ギャラが良かったからですね・・。
ただ残念ながらこの家具の問屋さんは、
数年前ですが倒産してしまいました・・・。


流通価格をさげるということは、中間でマージンを取っていた業者の
仕事を奪い取るということでもあるのですね・・・。


どうですか?
ニトリがなぜ26年間増収、増益であるのか
だんだん分かってきましたか・・・。





その8 渥美氏との出会い


開業9年目の昭和50年。
ニトリは一度はどん底まで落ちたものの復活し、
4店舗、年商6億円の規模になります。
それでも社長はまだ31歳。若いですね。


その翌年の昭和51年。
ニトリは画期的なことを始めます!
何だと思いますか?


なんと「大卒者の定期採用」なのですね。
その時採用された5人は、「まぼろしの第一期生」といわれるそうです。
皆辞めてしまったからなのですね。
もし残っていたら、間違いなく幹部社員だったのですけどね・・・。


その頃家具屋に就職が決まると、親から
「何で大学まで出たのに家具屋なんかに入るんだ!」


そういわれるくらいの業種だったらしいのですね。
確かに長時間労働で低賃金。不人気業種だったらしいです。
拡大のための定期採用だったのですが、当初苦労します。


先月ご紹介した「DeNA」の南場社長も、
会社設立当初の採用には苦労したそうです。
「何だか社名が読めなくて、訳の分からない会社には
子供は入れられない」
と親から言われたそうですね。


会社拡大時期にどんな経営者もこれで悩むのです。


ただ昭和53年の第三次オイルショックで、就職氷河期が到来。
ニトリにとってはまさにチャンス到来でした。
この時のニトリの全従業員数は60名。
それに対する新卒採用者36名!
すごいですね。


なぜこれだけ強気の経営ができたか?
やはりこれはコンサルタントの渥美俊一氏の影響が
大きかったと思うのです。


この時確かに店舗のチェーン化について似鳥社長は悩んでいました。
「支店を出すなら5店舗くらいまで。」これが当時の常識でした。


昭和52年。33歳の時に渥美氏主宰の「ペガサスクラブ」に
最年少で入会します。
ここでチェーン展開するノウハウを学ぶのですね。
ここで渥美氏から言われた一言が似鳥氏を飛躍させます。


「流通業界の経営者は、35歳前後で大きな決断をしなければ
ならない。」


すばらしい一言です。
この一言で似鳥社長は、会社拡大させ、
北海道から全国展開することを決意します・・・。





その9 北海道から全国制覇へ


創業から18年、昭和60年に、ようやくニトリは海外に目を向けます。
昭和60年(1985年)というとどんな年か分かりますか?


あのプラザ合意があった年ですね。
1ドル250円だった円相場が一気に120円台に向かったのですね。
当然経営者の誰もが
「これは製品が安く買えるチャンスだ!」
と思ったのです。


すぐさま似鳥社長は、東南アジアの家具メーカーに
アポイントを取りまくります。
このあたり、「猪突猛進」の社長さんですね。
まだ41歳、この行動力ですね。
輸入のノウハウが全くないのに、どんどん輸入家具を増やします。


でもそう世の中甘くないのですね。
なんと、クレームの嵐です。
東南アジアは高温多湿なので、木材製品の含水率が
20%前後と日本の12%と比べて高いのですね。
そんな製品を湿度の低い北海道で使用すると、水分が抜けて
結局はヒビが入ってしまうのです。
水分を完走させてから輸入させればよいのですが、
現地には乾燥機械そのものもなかったそうです。
もう返品の山・・・。
輸入ビジネスはそう簡単ではないのです・・・。



昭和62年、ニトリの売上は103億円、まだまだ中堅企業の
カテゴリーですが利益は4億1000万あったそうです。
これをベースとして平成元年9月、札幌証券取引所に上場します。


「100店舗、売上1000億を目指す企業が
どうして東証ではなくて、札幌証券取引所に上場するのだ!」


そう突っ込みたくなりますが、まだこの時、似鳥社長は
自信がなかったようです。
「北海道を制覇する」
そう思っていたようですが、結局は北海道の閉鎖的な社会に
なじまなかったようですね。


北海道の財界人となるには、まず学歴が物を言うのだそうです。
つまり北海道大学出身でなければダメということです。
ここは、失礼ながら「落ちこぼれの」厳しい現実です・・・。


結局、北海道になじめず、本州に向かいます。
初めて本州、それも千葉県に出店したのが平成3年。


でもその時はまさにバブルのピーク。
でもここで感心したのは、土地代が高すぎてダメだと思ったら
すぐ撤退したことなのですね。
賠償金を数億払っても撤退しているのです。


結局本格的な本州進出は平成5年。
今度は茨城県ひたちなか市。東京からかなり離れたところから
スタートしました。
これも自信がなかったことの現れですね。


当然ですが、その頃関東の人は、「ニトリ」何て誰も知らない。
地主からも土地を貸すことさえ嫌がられたそうです。


「イチとり、ニトリ、命トリ・・・
そんな聞いたことない会社には絶対貸さない」と・・・。





その10 SPAへ進出し大躍進


平成元年に札幌市場に上場したニトリは、その調達資金で
家具メーカーを買収します。


あのユニクロと同じ戦略、製造小売業(SPA)への進出です。
でも、当初うまくいかなかったのですね。
破たんした家具メーカーが「高級家具路線」を志向していたからです。
赤字額がさらに膨らみ(16億円!)ピンチに。
ついには日本での生産をあきらめ、インドネシアに進出。
ここも当初うまくいかなく、さらに追加資金(5億円)!


現在では海外での生産の割合が8割にもなるニトリですが、
当初は、海外生産はそう簡単ではなかったようです。


さらに追い打ちをかけるような事件が勃発。
平成9年11月15日、あの北海道拓殖銀行が破たんしたのですね。
ご存知の通り、拓銀の破たんにより、北海道経済はめちゃめちゃに
なりましたからね。
国は、りそな銀行を救済したものの、拓銀を見捨てたのですから・・。


さらにその9日後、あの山一證券が自主廃業を決めました。
この本で知ったのですが、その前の年に、拓銀と山一が
保証する転換社債50億円を発行していたのです。
実は、この時、ニトリは連鎖倒産してもおかしくなかったのです・・。


この危機を何とか乗り越えたニトリは
平成14年5月に東京証券取引所に上場します。
その後の10年でニトリは急拡大していきました。
詳しくはこの本をお読みください。
その「自慢話」はいくらでも記載されています・・・。



最後にまとめます。
似鳥社長が「落ちこぼれでもなぜ成功したか?」
私なりに気が付いたのですが、
あのエステーの会長さんがおっしゃっている言葉ですね。こちら


「運、感、度胸」


これにつきますね・・・・。


ニトリが来るべき平成26年2月期決算で
「27年連続増収増益」を達成できるかどうか・・・。
この円安と消費税増税をにらみ、
どんな戦略を打ってくるのでしょうか・・・。


でもあの似鳥社長なら、この大記録を継続していきそうな気が
しています。


やはり


「お値段以上! 似鳥社長!!」

 

(がんばれ!ニトリ・シリーズ おしまい)

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