その1 オリンパス事件の指南役



野村証券



前々から話題になっていた本。
「オリンパス事件の犯人が書いた暴露本」
ではないかと思っていて実は敬遠していました。


「野村證券で一番稼いだ男」
とか「バブル時代の回顧録」
とかいろいろ言われていますね。


私も一応野村OBだから一応読んでおこというつもりで
買ってみました。
正直なかなか面白かったですね。


ただオリンパス事件については、つい読み飛ばしてしまいました。
今更事件の概要を知っても仕方ないですしね。
何が面白かったかというとやはりバブル時代の証券営業。
懐かしいのと、よく知っている人も登場して一気に読んでしまいました。


私が野村證券にいたのは1992年(平成4年)までですから
今から25年以上前のこと。
ですので30年以上前のことをよくもまあこれだけ
克明に覚えているものですね・・・。


筆者は横尾宣政氏。
京都大学経済学部を卒業し1978年(昭和53年)に
野村證券に入社します。
私は1984年(昭和59年)入社ですから6年先輩ですね。

野村證券は入社した年次で、「53年」とか「59年」と呼ばれます。
ですからその年次というのは、会社にいる限りついて回りますから
何年入社というのは大事なのですね。

ただ私が現役の頃、横尾氏のことはまったく知りませんでした。
本社の主要部門にいた方なので、私自身がそんな部門にいなかったから
知らなかっただけということなのでしょう。
この本を読む限り、この横尾氏を知らない人は社内には
きっといなかったでしょうね。
それだけ有名人だったはずです。


営業のトップを走り続け、最後は新宿野村ビル支店長を
最後に退職しています。

そのままいたら間違いなく、役員にはなっていた方なのでしょう。


ただ残念ながら、オリンパス事件で巨額粉飾の指南役として
逮捕起訴され、一審、二審とも有罪判決を受けています・・・。


 

この本を読むと、

「証券会社はやはり・・・だったのか・・・」

本当にそう思うでしょうね。
当時の証券会社の内情がよく分かります。

 

先日ご紹介した金融庁の本「捨てられる銀行2」で

フィデューシャリー・デューティー(真の顧客本位の業務運営)

を何度も解説したつもりですが、20年も前の証券会社は
そんなことは微塵も考えていなかったこともよく分かります・・・・。






その2 30年も前の株屋


横尾氏は入社後に金沢支店に配属されます。
野村證券はきっといまでもそうでしょうけど、
東大や京大卒でも必ず営業は経験させるのですね。
私も最初の赴任地は高崎支店。
懐かしい思いで読みました・・・。


入社後すぐに証券外務員試験を取らされます。
驚いたのは、横尾氏はその試験合格後すぐに
株式購入キャンペーンをやらされたこと。
私の場合は、入社してとにかく「名刺集め」。
3か月くらいはやらされたでしょうか。
入社してすぐの新人に株を売らせるのはなかなかできないこと
ですね。
当時1株600円の味の素の株を1か月で5万株売るキャンペーンで
横尾氏だけがこれをクリアしたそうです。
なかかなか優秀な営業マンだったのですね。


新人で入社したのですから、顧客は当然ゼロ。
そこからわずか一カ月で新規開拓して、5万株売りきったのは
すごいとしか言いようがないですね。

ちょうど今頃の6月になると、よく職場に新人研修を
終えたばかりの営業マンが飛び込み外交に来ますね。
そういう人を信じてお金を預けようとするでしょうか。

「新人離れした」営業力としか言いようがありません・・・。

 

でも驚愕の事実も書いてありました。
53年の同期入社は167名。
そのうち69名は1年以内に辞めているそうです。


その原因は、「ファミリーファンド」と「ロクイチ国債」。
私は聞いたことがある程度の商品ですが、

「儲からない投資信託」と「暴落した国債」

こんな商品を当時証券マンは売らされていたのですね・・・。



さらに懐かしい単語が出ていました。


「一日商い」と「仕切り商い」


この単語に郷愁を感じるのは、きっと私のような古い証券マン
なのでしょうね。
今は多分業法がより厳しくなったので「禁じ手」になっていると思います・・・。


「一日商い」とは「ついたちあきない」と読みます。


株式は通常四日後に決済されますね。
例えば4月1日に決済されるのは、3月29日となります。
よって、3月29日は「4月の一日商い」と言われ
野村マンにとっては、まさにキャンペーンの日。
ただ単にキャンペーンなどという生易しいものではなく、
その日に4月分のコミッションのノルマを達成しなければいけない


「月に一度の決戦の日」


支店も大騒ぎですが、会社全体としてこの日のために、
銘柄も指定し、玉(ぎょく、つまり証券用語で株式のこと)を確保します・・・。



でも正直書くと、この日が嫌で嫌で仕方がなかった・・・。
横尾氏のようにできる営業マンなら、活躍できるのですが
私のような成績の芳しくない営業マンは、一日営業課長に
怒鳴られまくられ・・・。

「どんなことしてでもコミッションを稼げ!」

苦い思い出しかありません・・・。

 

 



もう一つの

「仕切り商い」

これは今では完全に業法違反です。
30年前には当たり前のようにありました。


例えば、A銘柄を寄り付き1000円で50万株、
野村證券のポジションで買ってしまうのですね。
相場がいい時なら、一日で1000円が1050円に上がることは
よくあります。
上がってから、儲かるのは間違いないからお客さんに強気で進め
すぐ1050円で売ることができるのですね。
まさに「思惑買い」。


ただ当然相場が良ければいいけど、1000円が950円になることも
あります。
時価が950円のものを1000円でお客さんに買ってもらわなければ
ならないのですね。


ただ当時はパソコンのない時代。
株価は翌朝の新聞を読まない限り分からないのです・・・。


でも、下がった株を売ること、お客さんをだましているようで
これもつらかった・・・・。





その3 オレの数億無駄にするな



金沢支店の横尾氏の新人時代のお話、「武勇伝」は懐かしく
読みました。
本当にものすごいセールスマンだったのですね。
いろいろ書きたいのですが、まさに暴露本なので
遠慮しておきます。



ただ、売買報告書を家まで行って破り捨てた「武勇伝」は
正直ひどいですね。
今でいうなら完全に法令違反(昔もそうでしたでしょうけど・・・)
「上司の命令だっと」書いてありますが、
それは単なる言い訳でしかないでしょう。


これ何となく想像つくのですが、昨日ご紹介した「仕切り商い」で
注文を黙ってやってしまったのだと思います。
これを業界用語で「ダマテン」といいます。
これも今では完全な法令違反。(これも昔は・・・)

黙って売買しても、必ずお客さんには売買報告書が届きますからね。
絶対にバレます。
それを破りに行ったということは、今なら「懲戒処分」ものでしょうね・・・。


やはり、この「仕切り商い」というのは、
今だからこそ言えますが「諸悪の根源」でした。


注文を相場の立っている午後3時までに決めなければ
ならないのですね。
朝9時に1000円で買った株を午後3時に決めなければ
どうなるか分かりますか?
翌朝新聞を読めば「終値」をみれば時価が分かってしまいますからね。
仮に午後3時に900円に暴落していたらどうなるでしょうか?
900円のものを1000円で買ってくれとはお客さんにはいえないですね。
損することが確実な銘柄ですから。


ではどうするかというと、他の銘柄を午後3時までに売却しておいて
(たぶん損切りさせておいて)その銘柄を1000円で
買っておくのですね。
たぶんこれは「黙って」売って、「黙って」買っておくのでしょう。
すぐばれてしまうから、売買報告書を破りに行ったのです・・・。


金沢支店での3年あまりの勤務を終え、
東京本社事業法人部に栄転になります。
これは私の経験からも間違いなく大出世です。
正直あり得ない人事異動です。


温泉旅館の社長さんとの転勤のあいさつの場面では
なぜか妙に感動しました・・・。


「オレの数億無駄にするなよ・・・偉くなれ・・・」


きっと数億円損させたのでしょうね。
一方で彼のコミッションは数億稼いだと思うのです。


ひどいですね。
こんなひどいことをするセールスマンでも
野村證券では優秀であるとされ、トップセールスマンと称され
支店長まで上り詰めたのです・・・。


絶対私にはできなかったので、あのまま残っていても
きっと偉くはなれなかったでしょうね・・・。





その4 ブラックマンデーの思い出


1981年(昭和56年)11月、横尾氏は題名の通りの
野村證券第二事業法人部に「ご栄転」します。
事業法人部とは、名前の通り「上場企業」を相手にする部署。
野村証券内ではまさしく「花形の部署」。
それを入社4年目の20代でいくとは、考えられない大出世。


異動後「創意工夫で担当会社を次々と陥落」させたそうです。
さらに稼ぎに稼ぎ、担当役員から注意されるほどだったそうです。
ついたあだ名が、
「コミッションの亡者」
その後大活躍をしたのはたぶん本の記述どおりなのでしょう。


30年も前の野村證券はとにかく稼ぐものは社内で
「ヒーロー」でしたからね。
稼げば何やっても許された古き良き時代!?です・・・・。


書きながら思い出しましたが、社内で、

「ペロは人格」

という言葉がありましたね。
ペロとは注文伝票のこと。つまり注文を多く取る人は、
人格者であると・・・・。

ただ、横尾氏はこれだけ稼いだ割には給料は大したことなかったと
記述もありましたが・・・。(そうでしょうか・・・・?)


私が在籍した時と一瞬だけ重なった時期がありました。
ここは読んでいて懐かしかった。
それは1987年(昭和62年)10月19日の「ブラックマンデー」。


この時私は本社の転換社債ワラント部転換社債課のディーラーでした。
あの日、一日で日経平均が3836円も下がる史上最大の大暴落。
株価ボードはいつも上がると赤色に下がると緑色になるのですが、
この時ばかりは、全面緑色。まさに「オールグリーン」

30年経ってもあの時の全面緑色のボードが忘れられませんね。


しかし、この時の横尾氏がこの転換社債課に来ていたのですね。
その時の転換社債課のヘッドは松木新平氏。
狭い部署だったので部長席はすぐ隣でした。
人間的には尊敬していたのですが、その後総会屋利益供与事件に
巻き込まれてしまいました・・・。


転換社債課の隣にワラント課があったのですね。
当時はワラントも活況でした。
その後社内外的には大問題となるワラントでしたが・・・。
オリンパスはブラックマンデーの影響で決算前に
大損失を受けてしまいます。


それを何とかしようと横尾氏はオリンパスに暴落したワラントを
奨めます。

でも当時のワラントの市況はそれほど大きくはなかったのですね。
それで横尾氏は松木部長に頼みワラントを大量購入したのです。
それをオリンパスに買わせます。
これは一大大博打だったと思うのですが、
そのおかげでオリンパスは救われたそうです。


30年も前の私が若かりし頃、
こんなやりとりが、目の前で行われていたのですね・・・。





その5 小タブチさんを辞めさせた



1981年(昭和56年)に横尾氏を第二事業法人部に
異例の抜擢をしたのが田淵義久氏(いわゆる小タブチ)。
その年に担当常務になったばかり。

その小タブチさんが第7代野村證券社長になったのが
その4年後の1985年(昭和60年)。
私は1984年(昭和59年)入社の私にとって子タブチさんは
まさに「殿上人」、「神様」でしたね・・・。
横尾氏はその神様に相当可愛がられたみたいですね。


ただこの神様が損失補てんの問題で辞任してしまうのですね。
株主総会で「大蔵省のご承認を・・・」と失言したことが
きっかけでした。
これは以前ブログで詳細に書きました。こちら
株主総会の最前線で見ていたのが私でした。



この損失補てんのそもそものスキームは横尾氏が
仕組んだものだったのですね。これは驚きでした。
ただそのワラントを使ったスキームを詳細に書き表していますが、
これを通常の売買であると立証するような専門家は
当時の野村證券の社内にも社外にもいなかったと断言できます。


何よりワラント自体を理解している人も少なかったのですから・・・。
横尾氏自身はこの問題を危惧していたようですが、
当時の鈴木副社長の


「大丈夫だよ、横尾。うちは国税OBをたくさん押さえている。
国税局の下っ端が何を言おうとねじ伏せられる・・・。」



ずいぶんとひどい「暴露話」なのですが、
これは当時の野村證券の考え方であったのでしょう。
大蔵省の局長級を天下りで受け入れ、元税務署所長クラスを
たくさん税理士として抱えていたりしてましたからね。


「大蔵省のご承認をいただいているから
その下部組織である国税局には文句言わせない。」

と考えていたなら、国税局に対する大変な侮辱でしょう。
ただ当時の証券界全体を抑え込んでいた「ガリバー野村」としては
そんな不遜な考え方も蔓延していたと思いますね。


ただ子タブチさんがあのまま野村證券にいたら
野村はもっと発展していただろうし、横尾氏はもっと
偉くなっていたでしょうね・・・。


ここまで読んでいていろいろ考えさせられました。
当時ワラントの税務を理解している税理士は
日本にはいなかったでしょうね・・・。
ですから転換社債部に勤務経験のある私が、
もしあのまま社内で税理士になっていたら、本気で国税局と
争えたかもしれないのですね・・・。


私が在籍していた当時、野村證券の人事部に、

「金融ビックバンで金融ハイテク商品がどんどんでてくる。
社内税理士、つまりインハウスの税理士は絶対必要だ。」

力説したことを思い出しました。



ワラントに詳しい税理士が社内にいたら、
小タブチさんは救えたかもしれないのです・・・。


ただ当時の野村證券のトップは考え方が間違っていたと
本当に思うのです・・・。

第一次証券不祥事はこの税務調査からでした。
以前書きましたが、山一證券が破たんしたきっかけも
税務調査からでした。こちら
証券界は税金のことをないがしろにしていると
本当に思います。


(すいませんが、これは本音です。
多少不遜な考え方かもしれませんが・・・)




その6 ガンバレ!野村證券!


野村證券に対していろいろ熱く語りたいことは
たくさんあるのですが、やはりすでに25年も前に
退職した身ですからね。そろそろまとめましょうか。


横尾氏がいまさら何でこんな本を書き著したのだろうと
考えてしまいました。

「オリンパス事件では私は悪くない。」

それを言いたかったのでしょうか。

「野村證券ではこんなに優秀なセールスマンだったのだ。
本当なら社長になるべきくらいの者がそんな悪いことするはずがない。」
と・・・。


世が世なら本当に、社長になってもおかしくなかったのかもしれませんね。
本人も何度も書いているように、
社長にまでならなくても、
「稲野社長、横尾副社長」このラインをきっと望んでいたのでしょう・・・。

 

25年前の野村証券は、確かに伝説のセールスマンが
数多くいました。


第五章「大タブチ、小タブチ ノムラな人々」
が読んでいて一番面白いところでした。



確かに書かれているように、昔の野村マンは絶対演歌しか
歌わなかったのですね。

それも、タイトルに「男」、「船」、「女」、「港」、「太鼓」が
つく歌ばかり・・・。
分かりますね。北島三郎や鳥羽一郎あたりですね。

つまり、「義理人情浪花節」を賛美する歌だけ
が歌うことを許されていたのですね・・・。


登場している「ノムラな人々」は皆知っています。
最後に内緒ですが、この中のある方(守秘義務があるので
もちろん誰とはいえません。)と税理士となってから
仕事上のお付き合いしたことあります。


お会いして最初にこう言われました。

「何で君はノムラ辞めたのだ・・・。
ノムラにいた方がデカい仕事ができただろう・・・。
何で税理士なんかに・・・・。」


まあそうでしょうね。
こういう伝説の方々には、

「税理士の仕事なんて絶対理解はできないでしょうね。」



1998年(平成10年)6月。
横尾氏は新宿野村支店長を最後に、20年間勤めた野村証券を
退職してしまいます。

その後の彼の仕事に関しては、正直まったく興味ありません。
オリンパス事件も理解する気もしません・・・。


ここでは詳細には書きませんが、
横尾氏が高崎支店長時代に、株式の長期保有を薦めたことと
野村の投資信託を売らせなかったことは、強烈な「暴露話」であり
痛烈な批判です。
それでも評価され、役員候補がなる新宿野村ビル支店長まで
上り詰めます。


新宿野村ビル支店長時代に、支店長会議で
当時の氏家社長言い放った発言はなかなか秀逸です。
ただあれを支店長会議で言い放ったのは、
もうすでに辞める覚悟だったのでしょう。


ソフトバンクへ移った北尾氏とともに、横尾氏は当時としては
あまりにも優秀すぎたのかもしれません。

証券不祥事の残り火がくすぶり続ける中、
野村證券はその後低迷してしまいました。
北尾氏や横尾氏がいたら・・・・。


自分の古巣をあらためて顧みることができた楽しい本でした。
今後の野村證券は後輩達に期待するしかありません。



(ガンバレ野村證券シリーズ!! おしまい)





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