モーレツサラリーマン編
モーレツサラリーマン編

その1 再スタート


夢のお話が続いてきたので、また人気シリーズ?を復活させたいと
思います。


このブログを始めて1年以上にもなりますが、
最近、当事務所を訪れる方が、私のことを非常によくご存知のようなのに
驚いています。
やはりこれだけ、あれこれ、しかも好き勝手にアップし続けていると
かなり私のことが分かってしまうのでしょうね。


他のブログのことは知りませんが、私としてもできるだけ、
正直に自分の心情なり、考え方を書いてきたつもりです。
(つい、書きすぎた面もあったかもしれませんが・・・)
それで自然に、私の「素の」人間性が出てしまうのでしょう。

先日も野村證券の後輩が、いきなり尋ねて来ました。
しかも、このブログを、かなり丹念に読んでから来たようです。
「でも先輩はなぜ野村證券をやめたのですか?」
「なぜ税理士を目指したのですか?」
ずばり聞かれてしまいました。


そうなのですね。そのあたりまだ書いていなかったのですね。
昔話をやり出すと、あれこれ脱線して、余計なことまで
つい書いてしまうから、肝心なことに触れていなかったのです。


またしばらく、この「昔話」を書いてみようと思います。
以前は、ブログ・コンサルタントの方から(そんな職業もあるのです・・・)
「アクセス増やすには・・・・」
とよく私がこのブログで触れることを何度も言われた経験があります。
昔話なんてもってのほからしいです。


でも最近は、そんなこと拘らないのですね。
別にアクセス数など、気にしないわけではないですが、
別にいいのです。
好き勝手書いて、自分のことをアピールするべきだとも思うのです。
分かっていただける方だけに読んでもらえれば
それでもいいのではないかとも思うのですね。


実は、ちょうどブログを同じ時期に始めた顧問先の方から
「ブログから大きな商談が来ました・・・」
先日そう言われました。
これは本当にうれしかったですね。
現代では、やはりブログもバカにはできないのです。
本気に商談をしようとする人は、必ず必死気なって
読んでくれるようです。
この方のように、自分の主張を曲げずに繰り返しアピールし続ければ
いつか分かっていただける人が現れるのでしょう。


・・・・そんなことで、また得意の昔話を始めたいと思います。
先日来悩んでいる、「自分の夢」を確認するために・・・。





その2 大阪債券部勤務


「3日、3月、3年の法則」
これは以前ご紹介した誰でも一度は会社を辞めたいと思う周期です。
これは私の造語ですが、もう1つお勧め?の造語。
「脱サラ指数」
脱サラしようというボルテージを示す指標です。
100%は辞表を叩きつけた時です。
誰でも潜在的に10%や20%ありますよね?
「こんな会社辞めてやる!」
ふと思いませんか?
朝に満員電車に乗る時や、日曜日の夕方にサザエさんが始まると
この指標は必ず上がります・・・。


やはり私もこの3年目に脱サラ指数急上昇の危機がありました。
最初の転勤です。
どこの企業でも、最初の赴任地は現場を経験させて、
それから本人の適性を見て・・・。
というのが一般的です。
私の勤務していた野村證券も例外なくそうしていました。


ありがたいことに、会社側は私の適性を見てくれていて、
次の赴任地を決めてくれていたのでしょう。
その赴任地は大阪本社の「債券部」でした。
これは実は私の希望した先でもあったのです。
ここでもし、意にそぐわない転勤があると、やはり「脱サラ指数」は
上がるのですね。
最初の3年間で、自分は株式営業には向いていないと感じていました。
どうも株が好きになれない・・・。
これは本音です。
その点、債券は好きでした。
「自分には債券が合う。次の赴任地で債券をもっと勉強して
本当の債券のプロになろう!」
債券の売買をボンド・トレーディングといい、それを扱う人を
かっこいい言い方で「ボンド・トレーダー」といっていました。
本当に高額年俸で外資系に引き抜かれる人も多かった時代です。
ですので、そのときの夢は
「日本一のボンド・トレーダーになろう!」
そう考えていました。


でも赴任初日。衝撃の事実が待っていました。
所属が債券部ではあるものの、その中の「転換社債課」でした。


転換社債は、その当時は大きなマーケットがあったのです。
しかし、その後その市場が商法改正などもあり、一気に縮小して
しまいました。多分ご存じない方も多いでしょう。


転換社債とは、その文字通り、株式に転換できる社債です。
株価の上昇に合わせて債券も値上がりします。
つまり、株の売買とそれほど変わらないのです。
ボンド・トレーダーになろうと意気込んで赴任したものの
また、「好きでもない」株式と付き合うことになってしまったのです・・・。
一気に私の脱サラ指数が上がります・・・。





その3 子はかすがい理論


脱サラ指数は急上昇したものの、それを踏み留まらせることが
ありました・・・。


「脱サラ評論家」!?としてまた今日も脱サラを目指す方のために
金言を差し上げましょう。


「子はかすがい」
ということです。
よく夫婦間の関係に使われる言葉ですが、これは会社と従業員との
関係でも当てはまるのではないかと思います。
実は、私は転勤の前年に結婚していて、最初の子を授かっていました。
「生まれてくる子のために頑張ろう!」
やはりそう思うものです。
奥さんの大きなお腹を見るたびに、仕事が多少自分の意図と違っても
「どんなことがあっても会社は辞められない!」
そう感じていました。


またこれも脱サラ評論家としての研究成果?ですが、
入社して早々辞める方は、やはり独身の方が圧倒的に多いようです。
その理由は、やはり独り身ですから、最近は結構安易に辞めてしまう
のですね。
「こんなはずではなかった・・・」
「自分の目指す道は・・・」
こう追い求めてしまうものです。


ちょっと脇道にそれますが、(いつものことです・・・)
税理士を目指して会社をそれこそ3年くらいで辞める方も結構います。
若手の税理士に独身が多いのもうなずけますね。
20代で辞めて試験を目指すのですから、合格するまで数年間、
さらに一人前に食えるようになるまでの間、やはり独身です。
内緒のお話ですが、この業界では40歳前後でようやく結婚する人も
多いのですね・・・。


お話を大阪本社の債券部のことに戻しますが、
私の脱サラ指数が一時的に下がったことで、新しい職場で必死になって
仕事をしました。


それと大阪という街が本当に新鮮でした。
何といっても食べ物が旨い!まさに「食い倒れの街」です。
毎晩のように先輩に連れられて、「キタ」や「ミナミ」に繰り出していました。
南千里に住んだのですが、緑が多く本当に良いところで
休みになると神戸まで行ったりして、食べ歩いていました。
そんなこんなで仕事よりも何より、大阪がまず好きになったのですね。


ただ、大阪の方がこれを読んで気を悪くしないで下さい。
関西弁というのは正直ついていけませんでした。
河内弁でしゃべっている同僚の女性が何を言い合っているか
さっぱり分かりませんでした。
仕事中にマンザイでもしているかと本当に思っていました・・・。


でも大阪は今でも大好きな街です。





その4 株式の極意を勉強


大阪の街がいくら好きになったからといって
やはり仕事が面白くなければサラリーマンとしての生きがいは
得られないですね。


株のキライな証券マンとして、ここは心を入れ替え、
株式の勉強を必死になってやりました。
本社部門のトレーダーなのですから、当然株に詳しくなければ
勤まりませんからね。


ではここで「株式の極意」を伝授しましょうか。
普通の税理士のブログなんかで、こんなお話は聞けません!?


当時からその相場観に一目おかれていた有名人で
その後大手の投資顧問の社長さんを渡り歩いた
真の「相場のプロ」から社内の研修で、聞いたお話です。
ただ20年も前のお話なので現在当てはまるかどうか・・・。
その研修で


「株を理解するには四季報をすべて暗記しなさい!」


そう言われました。
四季報というのは上場企業の業務内容から業績予想まで
網羅的に書かれている本です。
当時の上場企業数が2000社くらいだったでしょうか。
実際は四季報を全部暗記できる人はなかなかいないでしょうから、
それをよく読めということなのでしょう。


私も全部暗記はもちろんできなかったですが、
かなり上場企業の中味の勉強しました。
それとトレーダーとは企業名を社内的に、すべて証券コードで呼び合うので
その番号まで全部暗記しました。
今はもうすっかり忘れてしまいましたが・・・。


また、株価のチャートも勉強しました。
株の上がり下がりを書いたグラフをチャートというのですが
そのチャート分析することで、株価の予想もある程度できるのですね。
それと株式の売買の出来高との相関関係もあるのです。
これを公開すると守秘義務違反?かもしれないので
これくらいにしておきましょう。


それくらいに勉強しましたが、どうも株はやはり分からない。
ただ相場を扱う職業もそれなりに面白いなと思うようになりました。


株価の上昇局面では、社内はお祭り騒ぎのように活気が出るのです。
トレーダールームは大声で怒鳴りあっているようで、
本当にワクワクするような仕事としての喜びを感じました。


しかし、ようやく仕事に喜びを覚えるようになったものの、
会社というのは自分の意志とは違った行動に出るものです。


数ヶ月たって、急に東京本社行きを命じられました。


「大阪という街が気に入っていたのに・・・」
「何と人使いの荒い会社だろう。身重の奥さんを二度も引越をさせるとは・・。」


東京本社のトレーダーに抜擢されたというのは聞こえは良いのですが
その実、バブル前に急拡大する東京市場の本社スタッフの
人手不足が原因だったのでしょう。


それでも、世界のマーケットを東京マーケットが動かしていた時代でした。


「東京マーケットで一旗上げてやる!」
そう意気込んで東京に向かう新幹線に乗り込みました・・・。




その5 ブラック・マンデーの大暴落


時はまさにバブル前夜。
東京本社のディーリング・ルームは活況を呈していました。
やはり世界を相手にしている東京です。


地方の営業店に比べたら、本社のスタッフが皆優秀に見えました。
なぜか国立大出の頭の良さそうな人たちが偉そうにしていました・・・。
私立大卒体育会系の私としても多少気後れしたものの、
何より結果が問われ、それこそつまらない学閥などありえない会社
だったので、ここでも必死にトレーダーの仕事に取り組みました。


トレーダーというのは、注文を仲介するのが仕事ですが、
株価というのは、当然日々上がり下がりしますね。
しかも相場観というのは人によって違います。
その銘柄の株価を高いと思う人もいれば、安いと思う人もいる。
その情報を仕入れ、予測しそれを仲介するのが
トレーダーの仕事なのですね。
高いと思う人には売ってもらって、それを安いと思う人に
仲介する。その両者の橋渡しをするとともに会社としての利益も
確保する。
それがうまくいくと「トレーダー冥利」を味わうことができるのです。


あれほどキライだった株も、何となく仲良くしてくれている
ように感じていました。
相場の世界はこんなものか・・・。
仕事がまた面白く思えるときでした。


でも仕事というのは難しいものです。
ここで相場の本当の怖さを知る時がやってきました・・・。
これも古いお話で恐縮ですが、1987年10月19日に起った
有名な事件です・・・。


あの「ブラック・マンデー」と呼ばれた大暴落の日です。
日経平均が一日で3,800円、なんと15%も大暴落しました。
本社の大ディーリング・ルームには、壁面に株価を表示するボードが
あり、上昇すると赤色に、下落すると緑色に変わるのですが、
全面緑色、まさに「オール・グリーン」です。
あのとき携帯カメラがあれば、必ず写真でも撮っていたでしょうけど、
記念を残せなかったのは実に残念です。
でも今思えば、実に貴重な経験でした。


「これが相場の世界か・・・」
全面緑色の株価ボードに立ち尽くしたあの日・・・。
もう20年以上も前のお話なのですが、
あの緑色が今でも脳裏に焼きついてます・・・。





その6 暴落のおかげで自分の特性を発見


「脱サラして良かったですか?悪かったですか?」
よくその結果だけをいきなり聞かれることがあります。
本当に良かったかどうかは、その人の考え、生き方によって違いますね。
それこそ、その方が死ぬまで分からないのではないでしょうか・・・。
もう少し脱サラ編を続けます。


入社4年目の1987年10月、ブラック・マンデーの大暴落を
私は経験しました。


「それで株がキライになって証券会社を辞めたのですか?」
そう思われる方も多かったのでしょう。
確かに株の怖さを知ったのは事実ですが、でも、ここでもしそれだけの
理由で辞めていたら野村證券に入った意味がなかったのでしょう。


せっかくサラリーマンになったからには、いろいろ経験してから
脱サラするべきだと、これは「脱サラ評論家」としての持論です。
本当に「仕事の経験」と「人脈作り」が大事だと感じます。


また今となっては思いますが、あの時は大暴落で大変でしたが
大暴落が私の人生の転機となったのもまた事実です。
そういう意味で大暴落があって良かったのかも知れません。


なぜなら、その後すぐ、会社として当然かもしれませんが、
証券会社の本社にも大幅な機構改革がありました。
せっかく「花形ディーラー」になる可能性があったのに
その道が立たれた訳ですが、次に配属された部署で、
自分の特性を知ることができたのです。


実は、そのあとは、本社の中の企画のような部署に
回されました。
暴落後の反騰相場と結びつくような資料作りが
主な仕事でした。


昭和の時代ですから、まだ今のようなパソコンなどありません。
それでも会社の片隅には高価なコンピュータがあり、
そのコンピュータで東京証券取引所と連動したデータを
引っ張りだして、来る日も来る日も資料を作り続けました。


「こんな暴落はありえない。必ず反騰相場が来る!」


要するにそんな資料でした。
そんな資料を朝の7時から毎日終電の1時くらいまで作り
続けました
あの当時、よく証券会社は「セブン・イレブンで働く」といわれましたが
セブンイレブンどころか、「セブン・ワン」でした。


あの頃は若かったし体力もありました。
でも何より、「こういう仕事も面白い!」
自分で自分の適性を発見した喜びのほうが大きかったかもしれません。


まだエクセルもない時代です。確か「ロータス 123」(これも古い!)という
ソフトをあれこれ悩みながら操作していたのも思い出します・・・。





その7 コンピュータの時代へ


昨日つい筆を滑らせてしまいましたが、
「朝の7時から夜中の1時までのセブン・ワンで働きました。」
何て書くとマズイですかね。


税理士という商売をしていると、労働法など勉強することもあります。
でも20年前のあの頃は、不思議とそんなことはどうでもよかった。
「滅私奉公型の労働」というのですか。
日本の高度成長を支えたのは勤勉なサラリーマンだった訳です・・・。
確かに基本給より残業代の方がはるかに多かったかもしれません。
(これも内緒かな・・・)
ただ残業代が欲しくて遅くまで働いた訳でも、
また強制的に働かされた訳でもなかったのです。


朝から晩まで机に向かって、資料作りしたり、文章を書いたり、
コンピュータに向かうことはまったく苦にはならなかったのです。
「これが自分の得意分野だ・・・」


自分の会社の中で生き残る場所を見つけたようで
喜んで働いていました。


実はあとから知った話ですが、このとき会社は私に対して
「吉田は背も高いし声がでかいので、場立ちを経験させて
もっと株を勉強させた方がいい」
そんな声があったそうです。


「場立ち」とは、取引所内で身振り手振りをして売り買いを成立させる、
あの職業です。
手のひらを向こうに向けると「売り」でこっちに向けると「買い」
有名なのは、三本指を立てて頭を越すポーズをとると「三越」です・・・。


今では証券取引所がすべてコンピュータ化されてしまったので
もう無くなってしまった職種です。
やはり証券会社にも、当時も「株屋的な」体質が根強く残っていて
株を理解するには現場が一番のような雰囲気が実際にありました。


場立ちの職業は朝5時すぎに会社に来て、情報収集打ち合わせ、
そして午後3時の取引所終了とともに仕事は終わります。
まるで毎日、早朝勤務の「港湾労働者」みたいなものです。(失礼!)
本質的に株がキライな私は、正直そんな仕事は絶対にやりたくなかった。


しかも何より、このアナログの前近代的な職業は
いつかなくなるような気が本当にしていました。
これからはコンピュータの時代だ。そんな予感もあったので
嬉々としてコンピュータによる資料作りに精を出していました。


でも会社勤めとは思うようにならないものです。
やっと見つけた安住の地から、早くも半年ほどで
また異動をすることになります。
まあサラリーマンとはこんなものですね・・・。





その8 また営業の最前線へ


相場が良くなると本社スタッフを増やし、相場が悪くなると
営業をテコ入れするために支店の営業マンを増やす。
戦後証券会社はそれを繰り返してきたのかもしれません。
暴落のあとで、私は本社から支店の営業に戻ることになりました。


ただ、私にとって、せっかくの本社勤務が一年で終わることに
ショックを受けました。
ようやく、自分の適性にあう、安住の地を見つけたのに・・・・。
コンピュータを駆使して資料作りをするという
最先端の仕事に喜びを見つけていました。


次の赴任地は横浜のある支店です。
「また営業か・・・・」
そう正直思いました。


商売は営業が基本です。
どんな会社でもそうでしょう。
証券会社でも当然営業は基本中の基本です。
当時は営業で頭角を現したものが出世をするのが決まりでした。
よって、営業課長、支店長という出世コースを登らなければ
会社にいる存在価値がないようにも思われていました。


私も入社して5年目。それなりに会社におけるポジションが
分かりつつある時でした。
でも正直言って、5年で4回の異動は多すぎました。


「自分の適性を会社は見てくれているだろうか・・・」
そういう不信感はその後ずっと残りました。
証券会社特有の相場に左右されるという宿命と
それに振り回されている自分を感じました。


このときは、「脱サラ指数」は急激に上がりましたが
ただここで辞めようとはまったく思いませんでした。


それを踏みとどまらせたのが何かは、もうお分かりですね。
前にご紹介した
「子はかすがい理論」
です。
物心つきだした娘は、まさにかわいい盛りの2歳くらいでした。


「この子や家族のためにも辞められない」
そう思いました・・・。


「またここで頑張ろう!そしていつか支店長になろう!!」
そう意気込んで支店に赴任しましたが、
やはりトンでもないことが私に待っていました・・・。





その9 「金太郎飴」経営


横浜での支店営業のお話の前に、その当時の野村證券のことを
少しだけご説明しておきましょう。


私が入社する前の大昔のことですが、野村證券の中興の祖と
言われた奥村綱雄という有名な社長さんがいました。
その奥村元社長が標榜した
「ダイヤモンド経営」
という有名な言葉があります。
これは、多面体にカットされたダイヤのように、
多様な人材がそれぞれ個性を発揮して光り輝く経営を
目指したことでそういわれます。
確かに、私が入社した頃は個性的な経営陣が
多かったと感じています。
本当に私が就職が決まった時の役員面接は
役員からオーラを感じました・・・。


でも、その「ダイヤモンド経営」に相対する言葉として
これも野村證券を象徴する有名な言葉として
「金太郎アメ」
ということがいつ間にか言われるようになりました。
どこを切っても同じような顔が出てくる金太郎アメだと・・・。


これから、私のお話はバブル時代に突入しますが、
当時はすでに業界内で「ガリバー」と呼ばれるほどの
大証券会社でした。
国内では本当に敵がいない。そう社内でも皆思っていました。
今から思えば、個性的な多様な人材がいるより、
経営者の言うことを素直に聞く、金太郎アメの人材の方が
巨大戦艦の舵取りが楽だったのかもしれません。


事実こんな経験がありました。
結婚してすぐの頃、支店対抗野球大会がありました。
それに奥さんを連れて行ったとき、ビックリして
私にこういいました。


「支店長の顔がほとんど同じ・・・。」
そうなのです。
確かに当時の支店長は、丸顔で小太りで、眼鏡をかけていて
ギロッとした目、それで七三に髪の毛をピチッと分け、
そして声がやたらでかい・・・。


そんな判で押したような支店長が多かったと思います。
これがまさに後日、世論で指摘された、「金太郎アメ」だったのでしょう。


赴任した支店にも、その「金太郎アメ」が私を待っていました・・・。






その10 愛社精神


ここで野村證券の昔話を長々アップする前に、
少しお断りを申し上げておきましょう。
特定の企業の暴露話や批判などするつもりもありません。
以前アップしましたが、私は野村證券に高校生の頃から
入社したかったのです。これは本当なのです。
だからこそ大学では証券論も専攻した・・。
野村證券に世話になったと思っているし、今でも「愛して」おります!?
こんな人は、今の社員の中でも少ないでしょう。


それなのに
「なぜ私は野村證券を辞めたか」
「なぜ税理士を目指したか」
を説明したいからこそアップしているのです。
どうぞその点ご理解ください。


でも書きながら、昭和の時代の「野村證券の経営術」も、
ある意味で参考になるかなと思ってきました。
今思えば、「昭和の時代の成果主義」ではないかと・・・・。


「金太郎アメ経営」と「ダイヤモンド経営」

こんな言葉を今時、経営コンサルタントの方も言わないでしょうね。
実は、ご存知かもしれませんが、野村證券はその後、バブルを経て、
損失補てんや総会屋事件など、スキャンダラスな証券不祥事を
次々に引き起こし、結果的に大きく変わりました。
よくマスコミは、「金太郎アメの功罪」として書き立てていました。
そこで、この「ダイヤモンド経営」という言葉を引き合いにして
「ダイヤモンドがいつの間にか、つるつるの球体になってしまった」
「金太郎アメが証券業界を変えてしまった」
などと言われ続けました・・・。


でもかつていた社員として、正直に申し上げます。
あの当時「金太郎アメ」が全てでした。
ご紹介したとおり、社員が皆「セブン・イレブン」で働いたのです。
新入社員は全員独身寮に入れられ、激務のあとも毎日のように
深夜でも先輩たちと酒も飲みました。
おまけに休みの日にも同僚とゴルフです。
野村證券こそが生活そのものでした。
四六時中一緒の生活です。
その中で考え方まで「洗脳された」というといい過ぎでしょうか・・・。


だから、入社して5年も経つと、誰でも酒のせいで「小太りになり、」
市況を画面で毎日見るから、「眼鏡をかけ、」セールスのせいで
「大声を出すように、」なって、結局は皆同じような顔になってしまうのです。


さらにいうと、社員は誰でも
「酒は強いし、カラオケがうまくて、ゴルフが得意・・・」
そういう、「金太郎アメ」に自然とならざるを得なかったのです・・・。





その11 担当先2000件!


横浜に赴任した時、支店長の顔を見るなりすぐ感じました。
「金太郎だ・・・」
やはり、丸顔で小太りで、眼鏡をかけていて
それで七三に髪の毛を分け、ギロッとした目、
そして声がやたらでかい・・・。


その「金太郎支店長」は私にこういいました。
「本社で少しなまっているだろうから、現場で頑張ってください」
厳しいゲキで迎えてくれました。


その金太郎も、まだ30代の若手バリバリ。
営業課長から支店長になったばかりで、もうやる気マンマンでした。
当時は30台でも、多くのトップ・セールスマンが支店長になっていました。
ちょうど、ある支店で、入社10年目の支店長が抜擢されて、
「異例の人事」としてマスコミで話題にもなっていたときでした。
会社全体として「キープ・ヤング」という言葉があって、
とにかく「若手の抜擢を」という社内風土もありました。


ただ、その「キープ・ヤング」ということは、
その後の証券不祥事のあと問題視もされ、
やがて言われなくなってしまいましたが・・・。


金太郎支店長は私の顔を見るなり、
「支店の窓口の店頭係をやってもらおうと思っていたけど
キミは営業マンの顔だね。さっそく営業課に担当換えしよう。」


といって3年も年次が上の先輩をいきなり
私と交代させてしまいました。
「そんな・・・」


一方で入社5年目というのは、もう会社では一人前の扱いなのです。
野村證券では当時、(多分今でもあると思いますが、)
インストラクター制度というのがあって、入社数年経つと
新入社員の教育担当としてメンドウを見ることになっていました。


当然、入社5年目の「中堅」営業マンとして成績もあげなければなりません。
担当先が2000件くらいあって、支店の収益も稼がなければならないし
しかも新人君2名のメンドウもみる・・・。


まさにキツカッタのです・・・・。





その12 洗脳営業


営業の何がキツカッタかというと、株式の営業です。
やはり何度も悩んだように、株そのものが好きになれない・・・。
そういう営業マンが株を勧めてもやはりダメなのですね。
これはどうしようもないことでした。
でも金太郎支店長から毎日のようにゲキです。


当時野村證券では株式を「大量推進販売」という手法で売っていました。
これも証券不祥事のあと、これも問題視もされ、
今では無くなってしまった販売手法です。
ガリバーといわれるほどの大証券会社が
特定の銘柄を勧めるのですから、かなりの確率で大幅に上がります。
でも「野村證券が勧めるから株が上がる・・・」
どこか変に思ってはいました。
せっかく本社のトレーダーにまでなって株を勉強したのに
そんな幼稚な理由で株を勧められないのですね。
納得できないものを売るのは正直つらいのです。


当時野村證券が取り上げていた株式は鉄鋼株でした。
「東京ウォーターフロント銘柄」といって、
「東京湾岸に工場を持っている鉄鋼会社は土地の含みがあるので
今後莫大な価値が出てくる・・・」
確かそんなシナリオだったと思います。
ですので別名「シナリオ営業」とも呼ばれていました。
社命で株を勧めるのですから、これは自ら洗脳しなければならない。
東京の有明や千葉の幕張など3回ほど見学にいったでしょうか。


「これは鉄鋼株は大幅に上昇する・・・」
そう自ら洗脳しようと努力しました。
会社に生き残るには、当然営業成績をあげなければなりません。


今思えば洗脳しようとしたものの、どこか冷めている自分がいました。
結局休みの日もその鉄鋼株の資料をたくさんカバンに入れて
横浜中を営業していました・・・。
本社では自分の特性を見つけ喜んで働いていたのに、
正直働かされている感じがしていました。
本当にイヤイヤやっていたのかもしれません。


だからこそキツカッタのでしょう。
結局サラリーマン生活は8年ほどしかしませんでしたが
この横浜での営業マン時代が一番つらく苦しいときでした・・・。






その13 営業マンの絶頂の時


横浜というところは坂が多い街です。
でもその坂を上りきった見晴らしの良い高台には、必ず屋敷街があって
会社経営者など資産家が多く住んでいました。


その大金持ちを目指して、休みの日に株式の資料をたくさんカバンに入れて
その坂道を登って外交しました。
横浜港に有名な「中華街」がありますね。その裏手の山を登っていくと
「港の見える丘公園」があって「外人墓地」もあります。
だれでも知っている有名なデートコースですね。
実はその先にこれが「格差社会か」と本当に実感できるような
超高級なお屋敷が、当時並んで建っていました。


楽しげなカップルを横目に、背広を着たセールスマンが大汗を拭きながら
重いカバンを持って回っていました。
「こんにちは。野村證券の吉田です。」
休みの日に来られても、ほとんどが相手にしないか、居留守を使われます。
でもそんなことは最初から覚悟の上で、資料をポストに入れ、
翌週また電話するのです。
「資料読んでいただきましたか?」と・・。
その繰り返しの中で新規顧客開拓を目指しました。
そう簡単には成果がでませんでしたが、毎週末「丘営業」を繰り返しました。
その頃は、もう観念して、株式の営業は「夢を売る営業」なのだと
思うようにしていました。


そんな古典的な営業を数ヶ月した頃でしょうか、
ある大邸宅で「若いのに熱心だね」と老経営者が
扉を開け私を家に招いてくれました。


その時は自分が公務員を脱サラして会社を起こしたことと
苦労して大きな企業グループにしたことを話してくれました。
今思えば自分が脱サラして努力していた頃を思い出しても
いたのでしょうか。


それから数週間何度か訪れたあと、鉄鋼株の株価が急に上昇してきました。
意を決し、老経営者に電話しました。


「社長!東京ウォーターフロントの夢を買いませんか!
50万株買ってください!!」
一世一代のセールス・トークだったかもしれません。


「分かった。いくら必要?」
思いがけずそう言われて、電卓を叩く手が震えていました。
支店中が急に静まり返って、私の電話を聞いているようです。
「×億×××万円です。あ、ありがとうございます。」


電話を切った瞬間、支店中がスタンディング・オベーションです。
金太郎支店長が飛んできて、いきなり握手を求められました・・・。


20年経っても忘れられない、私の短いセールスマン人生で
絶頂の瞬間でした・・・。



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