炎の新入社員編
炎の新入社員編

その1 夢をかなえるゼイ スタート


うるさい上司の顔を見たくないと思った朝。
わずらわしい同僚の陰口に閉口する昼。
うっとうしい取引先の接待に疲れた夜。


ふと誰でも
「こんな会社辞めてやる!もっといい職場を見つけよう・・」
と転職を考えるもの。


求人サイトをみて条件の厳しさやその給料の安さに愕然とする・・・。
「まあ仕方がないか・・・。」
「しばらく我慢するか・・・。」
この繰り返しに悩む自分がいる・・・。


きっとこういう方々が、今や世の中では非常に多いのでしょう。
百年に一度の大不況。いつ自分がリストラのリストに乗るか・・。
リストにならないまでも、減給やボーナスカットは日常茶飯事。


「こんなことなら何か資格を取っておけばよかった・・。」
そう思ってる方が多くても無理はないでしょう。
本当に資格の講座がにぎわっているらしいです。
当事務所の歩いてすぐのところに、先日「公認会計士と税理士」の
立派な専門学校もできました。
そのうち公認会計士講座でも受講しようかなと・・!?


これから私の脱サラして税理士を目指したことを書いていきますが、
それほど用意周到に勉強していた訳ではありません。
しかも学生時代から勉強した訳でもまったくありません。
勉強を始めたのは30歳を過ぎてからでした。
大学は一応商学部を出ていますが、お恥ずかしい話ですが
簿記論の先生は試験の時にしか!?見たことありません。


大学時代から税理士になろうと必死に勉強していたら、きっと今頃は
中野で「一番大きな」税理士事務所になっていたでしょう!?
(あんまりこういうことを不真面目に書くと怒られるかな・・・)


ただ学生時代から簿記会計の勉強漬けではなく、
いろいろ回り道してきたことも、また今更ながら、
それはそれでよかったかなとも思っています。
おかげで、まだまだ中野で数番目の「小さな税理士事務所」でしか
ありませんが・・・。


夢をかなえよう!
と必死に、のた打ち回ってきた「私の履歴書」です・・・。





その2 青春の門


脱サラのお話なので、会社勤めしてからのことを書こうと思いましたが
その前のこともお話しておかなければいけませんね。
「夢」のことを書こうとしたら、やはり時計の針をもっともっと前に
戻さなければいけません。
社会人とは「夢」を忘れてしまう悲しい人種ですから・・・。


昭和55年、私は早稲田大学商学部に入学しました。
以前も書きましたが、高校時代に囲碁とバスケットボールに夢中になり、
残念ながら、現役合格することはできませんでした。
一年間真面目に予備校に通った結果、何とか早稲田にもぐりこむことが
できた訳です。


ただ、商学部に入って税理士を目指そうと「間違っても」
思ったことはありません。
子供の頃、漠然と「弁護士」になりたいと思ったことがありました。
でも昔子供の頃夢見た「弁護士」という夢は、
いざ大学に入る時に何となく覚めていたようでした。
一応、中央大学と慶応大学の法学部にも合格していましたが
法学部には何故か進みませんでした。
「早稲田が好きだったから・・・」
今思えばそれだけの理由だったと思います。


「自分は何をしたくて大学に入ったのだろう?」
そう自問しながら大学に通いました。
その頃よく読んだ本は、五木寛之の「青春の門」でした。

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何度も何度も読み返したと思います。まさに私の青春の本です。
主人公伊吹信介は「何を自分は目指すのか」それを確かめるために
生まれ故郷の筑豊から早稲田に入学します・・・。
自分と重なるところがあり、ものすごく共感した覚えがあります。
まだ学生でもあり、伊吹信介と同様、まだまだ「夢見る夢子さん」だったのでしょう。


その頃早稲田の商学部には「会計学会」という
会計士や税理士を目指す集団があったらしい!?です。
ただそういう集団には一切関わらず、相変わらずバスケットボールに
熱中していました。
バスケットボールの練習が終わると、授業には出ることなく高田馬場に出て
さかえ通り」のたまり場に、たむろしていました。
今も昔も変わらない「さかえ通り」も私の青春の地です・・・。





その3 青春の地「さかえ通り」


高田馬場を下りて線路沿いに「さかえ通り」という路地があります。
今も昔も同じように飲み屋が並んでいます。
この青春の地で私は「酒の味」を覚えましたし、
'亡国の遊戯'「麻雀」も覚えました。

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通りを抜けると、今もある焼き鳥の名店「鳥やす」があります。
その対面に昔「DUO」という喫茶店がありました。
そこがバスケットサークルのたまり場で毎日のように、それこそ
大学の授業には出なくても毎日通っていました。
夜はパブになり、学生の身でありながら、一番安かった「ホワイト」で
友人達と天下国家を熱く語っていました・・・。


カネがなくなると、下落合駅まで歩いていき、駅前にあった「学生援護会」で
アルバイトを探しました。
高額の日当を稼ぐバイトをして、そのカネが入るとまたホワイトを飲む・・・。
どこにでもいそうな「お気楽学生さん」だったのですね・・・。


あの頃から税理士を目指せば良かったのでしょうけど、
税理士や会計士がどういう職業であるかすら知りませんでした。
きっと今の学生も多分そういう人が多いのでしょうね。


よく税理士会で税理士の「地位向上を目指し・・・」なんていう
スローガン(お題目?)を聞きますが、大学回りでもして、
就職活動している学生に対して「税理士とは・・」という運動をやった方が
よほどマシではないかと思います・・・。


この頃自分が何を目指そうとしていたか分かりません。
高校時代にあれほど熱中した囲碁もまた何故か覚めていました。
早稲田の囲碁部は強豪であったものの、数ヶ月で退部してしまいました。
真面目にやっていれば学生名人くらいになっていたかもしれません!?


でも「青春の門」の伊吹信介と同様、自分の夢が何かを模索していた
のだと思っています。
アルバイトを本当にいろいろやりました。
家庭教師はむろんのこと、肉体労働でも販売員でも何でも・・
伊吹信介にあこがれていた私は「血を売るバイト」まで・・・(内緒)


あの頃、いろいろな職業を裏方から見た経験も、
今税理士としてあらゆる職種の方にアドバイスできる「肥やし」になったかな
とさえ今では思っています・・・。




その4 どうして野村證券に?


「どうして野村證券に入ったのですか?」
という質問にそろそろお答えしなければなりませんね。

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自分の夢探しとは別に、高校時代の頃から実は証券会社に入ろう
思っていました。
驚かれるかもしれませんが、間違いなくそんな学生は少なかったはずです。


子供の頃、私の父はサラリーマンながら、よく株をやっていました。
その手伝いで「チャート」を書かされたものです。
そんな経験から株に何となく興味があったのでしょう。


漠然とそんな幼児体験から、商学部で迷わず「証券論」のゼミに入りました。
当時の商学部は成績のよい人たちの間では、銀行と商社が人気でした。
今も多分そうだとは思いますが・・・。
人気のあるゼミからは、つまり成績のよい学生の間では
そういう業種の一流企業に入るのが「」だったらしいです。
当時の一番人気は「日本興業銀行」でした。
早稲田から興銀に入ると、「就職体験記を全学部のトップページで
書けたくらい」自慢できたものです。
今では無くなってしまった銀行ですが・・・。


ただ証券会社は間違いなく当時もあまり人気のない業種でした。
ですので、証券会社を回りだすと同期の友人の中では誰よりも早く
内定をもらいました。
ゼミの先生が三洋証券の顧問をやっていました。
当然入社するように言われましたが、これも無くなってしまった証券会社です・・。
入社していたらどうなっていたか・・・。


でも、丁度大学4年生のときに初めて、日経ダウが1万円を突破します。
「これからは間接金融(銀行)より直接金融(証券)の時代だ。」
「資本主義経済を支えるのは証券会社だ!自分の選択には間違いが無い!」
うぬぼれにも近い確信を持ってもいました。


ただ証券会社の実態は、やはり お気楽学生さんには
分かりえなかったのでしょう。
入ってから正直「後悔」することになります・・・。
私にも子供が二人いますが、子供に間違っても手伝いでチャートを
付けさすような「バカなこと」は絶対にやらせませんでした・・。




その5 証券会社に「夢」を託す


証券会社のお話をしだしたら、日経平均がバブル後の最安値
更新してしまいましたね。
まさにドンピシャのタイミングでしたね。


昨日、「これからは証券の時代だ!」と意気込んで
会社を選んだと書きました。
これは本当に当時そう思っていました。
1984年のことです。ですのでもう25年も前のお話なのですね。
日経平均が1万円を越え、それからその後3万8000円の高値まで
駆け上ったのです。
連日株価チャートが報道されていますので
ご覧になっているとおりです。
自分の相場観経済を見る目を自慢しなければなりませんね!?
まさに私の睨んだとおり、間違いなくその後の数年間は
「銀行よ サヨウナラ。証券よ コンニチハ。」
だったと思うのです。


確かにその後、後悔した場面もいろいろ出てくるので、
結局訳あって退職した訳ですが
それはそれで面白い場面を多く経験させてもらいました。
夢のような=バブルのような 場面もたくさんあったのです・・・。


学生の頃の夢のお話に戻りますが、
では、学生の当時に、証券会社に自分の「」を託したのでしょうか。
もう25年前のことなのでハッキリとは覚えていませんが
そうとばかりにはいえないのでしょう。
「野村證券の社長になろう」という夢くらい思ったはずですが・・。


学生時代はいろいろ回り道したつもりですが、伊吹信介同様、
自分の「夢」を探し続けていた時代です。
ただ大学3、4年生となり、やはり現実を直視し始めたのです。
子供の頃見た夢をいつまでも追い続ける訳にもいかない
現実があるのです。どうしても就職して働かざるを得ない・・。


でも「さかえ通り」で安酒を片手に、友人達と熱く語り合った「夢」も
それはそれで楽しかったと今でも本当に思っています。
「夢」を見るのも学生の特権なのですね・・。





その6 古きよき大学時代


大学時代のことをあれこれ書いてきましたが
「先生がさかえ通りで安酒を飲んでいたのは分かりましたが
では大学時代いったい簿記会計をどれくらい勉強したのですか?」
と今度は突っ込まれてしまいそうですね。


夢のお話から脱線してしまいますが(いつものことか・・)
これも講演会で必ず私がいう「ネタ」なのです。
多少ハジをしのんでご披露しておきましょう!?


正直申し上げて、大学時代に簿記の授業には出たことはありませんでした。
ということは簿記会計をほとんど勉強したことはありません。
全国の税理士の皆様すいません・・・。


商学部なので、実は簿記は必修科目なのですね。
でも古き良き早稲田の黄金時代
本当に良い先生が多かったと思います!?
その簿記論で著名な教授は、常に出席を取りませんでした。
よって普段の授業はいつも数名しかいいません。
ほとんどの学生はサボっているようでした・・・。
よって、私もその教授には悪いと思いつつ(本当です)、
出席したことはなかった訳です・・・。
最初の授業と最後の授業で教授に会うくらいで、
ほとんどその教授の顔を覚えていません。


でも、その著名な教授は実に親切でした。
どんなに学生がサボろうと単位をいただけるのです。
というのは最後の授業で、試験に出す問題のヒントまで教えてくれました。
どんなヒントだったかはっきり覚えていませんが、要するに
借方と貸方の意味」さえ知っていれば、どんな学生でも
解けるような問題を出すと事前に教えてくれていたのです。


よって学生は試験直前に「借方と貸方の意味」を
必死になって覚えます。
どうやって覚えたかが重要なのです。それは
借方のリは左のリ
それだけです。
要するに借方が左側であれば、あとの貸方は右側なのです。
本当にそれだけ知っていれば誰でも解ける問題でした。


すいません。正直申し上げたつもりです。
その教授のおかげで、単位もいただけ、卒業もできました。
それで私も今偉そうに税理士やっているのです。
本当にいくら感謝しても足りないくらいです・・・。


ただ、講習会で必ずいうお話なのですが
「借方と貸方の意味は無意味です。そんなことはどうでもよいです。」
そう説明してから超簡単経理を説明することにしています・・・。


借方のリは左のリ
これは私の講演会ネタです・・・。




その7 ついに野村證券入社


楽しかった学生時代のことをいつまでも書いていたら
なかなか「脱サラ」のお話に進みませんね。


社会人としての夢のお話もイヤイヤながら書いていきましょう。
ただ証券会社の悪口を書くのではなく、なぜ税理士という夢を描いたのか
ということを中心に・・・。


1984年(昭和59年)、私はあの野村證券に入社します。
ただ「野村證券の社長になろうという夢」(=うぬぼれ)は三日で
消えてしまいました・・・。
野村證券に在職した8年あまり。
私は人間的に本当に鍛えられたと思っています。
その意味で野村證券には本当に感謝しています。


4月1日、群馬県の高崎支店に赴任します。
そこで社会人としての洗礼を受けました・・・。
初日の出来事です。これもネタではなく実話です。一生忘れないお話です。


野村證券では当時新人は「名刺集め」という儀式を受けます。
要するに飛び込み営業です。
注文をもうらうまでいかなくても、とにかく相手の名刺をもらう・・・。
今ではそんなバカなことをいきなり新人にやらせることはなく、
数ヶ月の新人研修があるらしいですが、当時は本当にスパルタでした。
証券の「しの字」も知らない「生まれたての」新人が
洗礼を受けたわけです。
高崎駅からバスで10分くらいのところに、「問屋町」という
商工業者の密集している工業団地があります。
そこにいきなり連れてかれて、「今から名刺集めをして来い」という指令です。


本当にドキドキしたのを覚えています。
学生時代にアルバイトをしまくった私でさえ
いきなり知らない会社に飛び込むのはもちろん初めてで
本当に勇気が必要でした。
「いきなり入ってどうしよう」
学生の気分が抜けていない私は
戸惑いながら会社を眺めていました・・。
悩みながら歩いていると、とうとう問屋町の端まで来てしまいました。
そこに「大富スプリング」という会社がありました。
何故か今もその社名をハッキリ覚えています。


「ここから始めよう!」
スプリングという名前で、意を決して思いました。
まさに社会人としての「スプリング=飛躍だ!」
そう心に決めました。


会社の人がビックリするくらい大きな声で入ってやろう!
思い切りよくドアを開けて、腹の底から声を出しました。
そのあとの言葉一生忘れません。


「こんにちは!私!早稲田の!!!・・・?






その8 人生で一番長かった日


昭和59年4月1日。
自分の今までの人生の中で一番長かった日です。


社会人になっての初日に生まれて初めての「飛び込み外交
ほんとうに無我夢中でした。
でもやはり社会からの厳しい洗礼を受けました・・・。
「結構です!」
「もう来るな!」
「うるさいからいい!」
まあその程度のお話はまだまだ序の口なのでしょう。
その後営業でいろいろ経験したので思います。
でも生まれたての新人にはキツカッタ・・・。
暗くなるまで必死になって一件、一件回りました・・・。
なかなか話すら聞いてもらえません・・・。


でもその日は4月とはいえ、本当に寒い日でした。
群馬というと「からっ風」が有名ですが、その風も本当にコタエマシタ・・・。
新調した三つ揃えのスーツでも刺すような寒さを感じました。
しかも、足を棒にして回ったけどなかなか名刺すらもらえません・・・。
世間の厳しい風あたりにも余計寒く感じられました。


でも、日も落ちてこれで最後かなと思いつつ、ある町工場に入ったとき、
「寒いのに大変だね〜。ストーブにでも当たっていきなよ〜。」
その暖かい言葉忘れません。
出してくれたお茶も本当にうれしかった。
何を話したがまったく覚えていませんが、
「群馬にもいい人いるのだな〜」しみじみ思いました。
おまけに、説明がまったくでず、パンフレットだけ渡した
中期国債ファンド」を翌日わざわざ店頭まで来て
大金で購入していただきました。
自慢ではないですが、野村證券同期中で「初注文」でした・・。


その後「飛び込み外交」を中心に数年やりましたが
これこそ営業の基本なんですね。
つらいこともありましたが、それはそれでよい経験をしたと
本当に思っています。


当事務所も駅前なので、4月にはいると「新人君」が
大挙して押しかけてきます。
「私コチラの地区担当の・・・」


「おうおう。また今年も来たか・・・」懐かしくなります。でも
「結構です!」ワザと冷たくあしらって反応を見ます。
あっさり引き下がられると結構がっかりしてしまうことすらあります。


「ダメだよ。足を扉に挟むくらい・・身を挺して扉を閉められないように・・・」
なんて実は心の中では思っています。
これも毎年の4月の楽しみでもあります・・・。




その9 人生のスタートの日


人生で一番長い日の続き、実はまだあります。


初日からすばらしいお客さんに出会えてハッピーなスタートが切れた
だけで終わらなかったのですね。


夜の7時過ぎに疲れて支店に戻ると、心の中では
「もう遅いし、これで帰るのかな」とか
「何か歓迎会でもあるかな」
くらい甘い期待をしていたのですね。


でも、やはり証券会社というところは甘くは無かったのです。
それで終わらなかったのです。


いきなり電話帳をどさっと渡されて、
「今から株のセールスをするから・・・」
と電話によるセールスが始まりました・・・。
その株の内容もよく分からないのにいきなりセールスです。


「こんばんは。野村證券の吉田と申します・・・」
手当たり次第に電話して
「×× の株がお勧めです・・・」
何て始まったのです・・・。
いやはや参りました。
それが9時過ぎくらいまでやったでしょうか・・。


結局あれこれやって終業が10時過ぎ。
さすがに初日の緊張と慣れない仕事でもうヘロヘロです。
正直もう帰りたいと思っていると


「では、これから新人の歓迎会でもやるか!」
「えっ!・・・」


もちろん。断ることもできず先輩達から酒を飲まされました・・・。
本当に終わったのは12時過ぎ、本当に独身寮に戻ってバタン・キューです。


毎年4月1日。
あの頃を思い出し、自分のスタートの日だと本当に思います・・。





その10 古きよき株屋的体質


一人で昔を懐かしがっていると
最近の証券会社のことをよく知っている方から
また突っ込まれそうですね。


「証券外務員の資格が無いものに証券の営業させるはずが無い!」と。
そうなのですね。
普通の方はご存じないのですが、結構証券会社というのは
法律に制約されて厳しいのです。
それが一昨年の金融証券取引法の改正により、さらに厳しくなりました・・・
実は証券会社に入社したものは必ず外務員資格を必ず取らせるのです。
要するに免許なのですが、その免許がないと何もできない・・・。
外務員資格がない者に対して、今では絶対そんなことさせないでしょうね。
でも昔は何でもあり!?だったのですかね。
ブログ書きながら気づきました・・・。(マズイか・・)
でも「名刺集め」というのは数十年前からあった証券会社での「伝統行事
だったのでしょう。
名刺集めとはいえ、証券のセールスのために出向くわけですから、
入社したばかりの新入社員であっても、そんなことはできなかったはずです・・・。
ましてや、資格の無い新入社員が電話による株のセールスなんか
絶対にできなかった訳です。
でもなぜか昔はやっていたのですね・・。(内緒)


やはり25年前の証券会社はまだまだ「株屋」的な体質が
多く残っていました。
これは本当に入社してから分かったことです。
資本主義経済を支えているのは証券会社だ!」
大学で証券論を専攻までして、意気込んで入社した割には
その後、「株屋と資本主義経済のギャップ」に悩むことになります。
でも、今思えばもともと「体育会系」の私には社風が
あっていたのかもしれません。
とにかく「根性」みたいな・・・。
以前ブログにも書きましたが、本当に毎朝6時に起こされて
マラソンしていました・・。


無我夢中で飛び込み外交を続けていたら。気が付いたら高崎から
前橋まで歩いていた!?なんてこともありましたね。
とにかくおかげで「ど根性」はついたのは間違いありません・・・。





その11 我が青春の高崎支店


入社して3年間はこの高崎支店で必死になって働きました・・・。
その当時は「税理士になろう」なんてコレッぽっちも、思いませんでしたが
「野村證券の社長にもなろう」なんても、まったく思いませんでした・・・。


営業やっていて、教わったことも本当に多かったです。
いろいろな方に出会い教わりました。
前にアップしたように、新社会人に少し言っておきたいみたいな
「小うるさい」中小企業の社長さんも当時は多かったです。
でも今思えば、そういう方々の出会いによっても
自分が成長したように思います。


また群馬県という地域性もよかったと思います。
群馬県は暖かい人が本当に多かったです。
その後転勤した大阪や神奈川とは比べ物になりません。(内緒)
「田舎」といったら失礼でしょうか。
都会にはない、のんびりとした土壌が私には合っていました。


そういう商工業の町や農家の方々にとっては、金融機関というのは
地元地銀であり、農協を指します。
資産運用で証券会社を選ぶというのは選択肢としては
普通にはありえないような時代背景もあったように思います。


証券会社=株屋 やはりそう見られました。
でも本人としては、
「銀行よ!サヨウナラ!証券よ!コンニチハ」
という啓蒙運動をやっているという気構えさえありました。


田舎の人に(失礼!)、「資本主義経済の仕組み」を教えてやろう!
それぐらいにも思っていました。
啓蒙運動の教祖であると、自分は布教に出向くようなつもりでした。
遠くに榛名山を眺めながら田んぼのあぜ道を駆けずり回って外交しました。


高崎支店にいた3年間、どこにでも外交しました。
所構わず飛び込み外交して、当時首相だった中曽根康弘氏の実家に
知らないで入ったこともありました・・・。
25年前は、クールビズなんか当然ですがあるわけもなく、
真夏にスーツに汗の塩が噴出しながらも走って外交していました・・・。


高崎から、前橋くらいは序の口で、館林や桐生までも。
また沼田(あの尾瀬の近く)や下仁田(こんにゃくで有名、
でもそれしかない田舎)にもよく行きました。
駆けずり回ったという方が適切でしょうか。


あの頃の私はどんな夢を追いかけていたのか分かりませんが
あの遠くに見えた榛名山がセピア色に懐かしく思えます・・・。






その12 貯蓄から投資へ


証券マンは昔「株屋」と言われたお話をし出したら、今度は麻生さんがまた
トンでもない発言をしましたね。
あまりブログで特定の方の名をあげてコメントを出しなくないのですが
「株屋は信用されていない。何となく怪しいよ」
この彼の発言には猛反発しておきましょう。


25年前は確かに「株屋」という単語が存在したのはご説明したとおりです。
でも、この21世紀にしかも、一国の首相がこう発言されるのは
やはり許せないのです。
自分の過去を汚された気がします。
ただ私はすでに証券マンを引退した身ですが、
証券会社はぜひ業界をあげて猛反発して欲しいと思いますね。
いっそのこと、自民党への政治献金を前面凍結くらい
したらどうでしょうか。(内緒)


これから、当時の「必ず上がります。儲かります。」という
大昔の「博打」のお話をしようとは思っていたところなのですが、
確かに昔、株屋という職業はあったかもしれません。
でも今や株式売買はインターネットが主流です。
しかも昔のようないい加減なことができないように、(これも内緒かな・・)
再三申し上げる「金融証券取引法」の大改正あったわけです。
その改正のためにどれだけ関係者が努力してきたか・・・。


また日本経済の発展のために証券会社の役割がどれだけ大事であったか。
古くはNTTの売り出しや、最近ではJRの売出しなど民営化のために、
また株式だけでなく、国の借金である国債を売るための努力を
どれだけしてきたか。
証券会社の資本主義経済での役割をぜひ改めて認識して欲しいと思います。


私もこの高崎支店時代に初めて発行された超長期国債(20年)を
必死になって販売したのを思い出しました・・・。。


また一方で、税制の面でも、「貯蓄から投資へ」という流れで
特に証券税制も大事な一役を担ってきたと思うのです。

麻生さんは多分「税制改正大綱」をよく読んでいないのかも知れませんね。
これも当然閣議決定しているはずなんですがね。
きっと「税制改正おおつな
と読んでしまうのでしょうね!?(これも内緒に・・・)





その13 証券営業


麻生さんにいつまでも文句言っても仕方ないので「株屋」の営業のお話を。
高崎支店で3年の営業とそのあと横浜でも1年間、都合4年も
証券の営業をやりました。


税理士として営業のお話を「偉そうに」いうのは私くらいでしょうか・・・。
でも、せっかくの営業経験を何か役立たせたいし、
営業面で悩んでいるお客さんの何か良いアドバイスができたらと
常に思っています。


では、証券営業の何がキツカッタか。
これも本当によい経験をしたと思うので、少しご説明してみましょう。
また少し、夢のお話につながることでもあります・・・。(ちょっとコジツケ・・・?)


証券の営業も本当に、「夢を売ること」だと思っていました。
例えば私が車のセールスマンだったら、普通はパンフレットを見せて、
「この車の特徴はこうです・・・。他社との違いは・・・」
と営業するはずですよね。


では株式のセールスにはパンフレットなんてありませんね。
「××の株は・・・という理由で上がると思います。」
と口で説明するしかありません。
それを補足する意味で、金利為替など経済情勢の見通しなども説明し・・。
でもこれも全て口頭なのですね。
なお、今も昔もパンフレットなどの断定したもので説明することも
法律により禁止されているのですね。


ですから、車のセールスマンの方が楽ではないかとよく思っていました。
結局、自分自身を売り込むこと、つまりお客さんとの信頼関係を
構築することがまず大前提なのです。
そうしないと、確かに麻生さんのように「怪しい」職業とされてしまうのです。
怪しいどころか、「競馬の予想屋」と同じように「株屋さん」と
また言われてしまうのですね。


でも世の中では、競馬の予想屋と株屋を混同している人が
まだまだ多いのです。


でも、株の営業とはその「株式の夢」を売るのです。
面白いセールスだと思いませんか。
「この株式が2倍3倍、それこそ10倍にもなる夢」を売るのです。
今の経済情勢では想像もつきませんか。


誰でも自分の手持ちのお金が10倍になったら楽しいですね。
宝くじを買ったときの夢とも似ています。
「3億円当たったらどうしよう。」
そう買うときに夢を見ますね。


でも株式投資は、馬券や宝くじを買うのとは根本的に違う
そう自分でも信じて営業してきました・・・。しかし・・・。





その14 鬼軍曹


証券営業がいくら夢を売る商売と言っても、やはり難しいものでした・・・。
自分の性格からでしょうが、どうしてもお客さんにうまいこと
言えない・・・。
結局のところ営業成績に直結してきます。
営業成績の上がらない営業マンは本当にツライものです。
今思い出しても、懐かしさより、怒られていてばかりのツライ思い出が
蘇ります・・。
黒いカバンをぶら下げて途方も無く群馬県内を駆けずり回った・・・。


根っからの営業マン
というのがいるのですね。
本当に口がうまい。
同僚や先輩を見て
「これは敵わない・・・」
本当に思いました。
世の中には「口から先に生まれてきたような方」が
本当にいるものだと。(失礼!)


株式営業は難しいものだと痛感しだしました・・。
それどころか、証券会社はやはり自分の性格には合わない・・。
入ってから本当に思い悩みました。
結局それが数年後退職につながって行く訳なのですが、
ただ振り返ってみれば、辛かったけどこの営業マン時代は
本当によい経験でした。


でもその当時は必死でした・・。
とにかく営業課長が怖かった・・。
「バカヤロー!辞めちまえ!!」
「決めるまで帰ってくるな!」
土日外交、夜討ち朝駆けは当たり前。必死でした・・。
働かされたというか・・。


昔の営業はきっとそうだったのでしょうね。
こういう営業課長は、どこにでもどこの会社にもいたと思います。
鬼軍曹が・・・。


たまに懐かしく思い出されます。
当事務所にもあの「鬼軍曹」がいればもっと営業成績が
上がるのでしょうね!?


「バカヤロー!今月新規顧問先何件やったんだ!」
「お前なんか税理士に向いていない!辞めちまえ!!」
「顧問先獲得するまで帰ってくるな!!・・・・」





その15 営業の喜び


でも誤解のないように書いておきましょう。
営業がイヤだから、ノルマがきついから会社を辞めたのではないと。


たかだか4年くらいしかやっていないので、営業について
偉そうに語る資格ないかもしれませんが、営業と言うのは
本当に商売の基本なのですね。
今まで税理士としても、さまざまな商売を見てきましたが、売上を上げるには、
つまり利益を出すには、やはり営業力がなければダメなのです。
「中小企業の社長さんは、トップセールスマンではなくてはならない。」
これ私の持論です。
しかも、営業部長でありながら、総務部長兼経理部長で庶務も・・・。
要するに社長は何でもできなければならないのですね。
ただ会計事務所が仮に経理部長の代わりを勤めたとしても
やはり営業部長は社長さんがやらなければならない・・・。


そういう営業の重要性も学びましたが、一方で営業のツラサだけでなく
喜びも味わいました。


こんな経験もしました。
「こんな辛い営業、何が楽しいのですか?」
支店内のある酒席で酔った勢いで、先輩に真顔で聞いたことがあります。
その先輩は
「営業は確かに10あれば9苦しいかもしれない。でも1喜びもある。
それが楽しいし、その1の喜びを味わいたくて努力するのだ・・・」


まだ若かった私は
「そんなものかな・・・でも9苦しいのもイヤだな・・」
と思ったことも覚えています。


でもその後、1の本当の喜びも味わうことになります。
確かにそれが忘れられないのでしょう。


前にアップしましたが、群馬県のある農協に2億円の国債を売りました。
約定して農協の前の公衆電話から「震えながら」上司に報告したこと
本当に今でも覚えています。
また、投資信託を支店のノルマ全額に相当する3億円を一発で売って、
支店に帰社した時、全員からスタンディングオベーションを受けた時・・・。


今でも覚えている本当に忘れられない営業マン時代の楽しい思い出です・・・。





その16 ターニングポイント


入社3年目で早くもターニングポイントを迎えました。
2年間個人向けの証券営業やりましたが、どうも成績が芳しくない・・。
理由は分かっていました。
先日アップしたように、「口がうまくなく」性格的に営業向きではないということと
根本的なお話なのですが、どうしても株が好きになれなかったことです。
高校時代から証券会社に憧れ、大学では証券論まで専攻しながら
どうしても株が好きにはなれませんでした。


証券会社では株が好きな人の集団です。
自分の好きなものだから他人にも勧められる。
普通はそうなのでしょう。
でも私の性格からなのでしょうが、株が上がったり下がったりすることの
意味がどうしても納得できない。
自分で納得できないものはやはり他人には勧められない。


できる営業マンというのは、納得できないものでも、何でも売ってしまう。
「この株は上がるものだ」とマインド・コントロールして売ることができる。
そこに根本的な差を感じていました。


株については結構勉強もしました。
チャート分析もやったし、日々の出来高を見て上がりそうな株の
タイミングを掴んだり・・・。(これ自慢ではないですがものすごいノウハウ)
あれこれやりましたが、やはり株というものは理解できませんでした。


3年目になり、個人向けの営業課から、法人主体の法人課への
支店内移動がありました。
なぜ移動したかというと、債券の営業が得意だったからなのです。
「上がります。儲かります。」という株のあいまいな営業より
確定利付きの国債を売る方が自分の性分に合っていたのでしょう。


でも、最近でもお客さんから株のこともよく聞かれます。
野村證券にいたことを知っているからこそ聞いてくるのでしょう。
あのころは必死に株式相場欄を見て研究していましたが
相場観のなくなった今は、正直分かりません。


「自己責任が原則なのですよ・・・やめた方がいいですよ。
それより本業にまい進して下さい。」


逃げるわけではないですが、そういうことにしています・・・。





その17 究極のセールストーク


移動した法人課というセクションは県内の金融機関を主に担当していました。
つまり群馬県の信用金庫や信用組合、農協などです。
今では合併が進んでかなり数が減ったらしいですが、
当時は中小含め結構多くありました。
それを車で毎日のように営業回りです。


また営業の忘れられないお話をしましょう。
合併されてもう無くなってしまった信用金庫なのですが、前橋の方に
ある信用金庫がありました。
実は前任の担当者はトップセールスマンでした。
それを3年目の若造が引きついだものですから、本当に苦労しました。
相手は50歳くらいの担当者。自分の親位の年ですので、
正直何と言っても話が合わない。


高崎から車で40分くらい。毎日のように顔を出しました。
担当し始めたのが6月くらい。それから通っても、通っても
なかなか商売に結びつかない。
かなり堅物の担当者で本当にまともに話もできない。
上司からそれでも毎日通えという指示です。前任の担当者は
結構その信金で営業成績を上げていました。
こちらとしても、かなりのプレッシャーでした・・。
「何やっているんだ!」当然怒られてばかり・・・。


それでも担当者と話をあわせるために、こちらも必死になって勉強しました。
金融や為替の動向など、野村総合研究所や東洋経済の雑誌など
話のタネに何か役に立つような資料も持っていったつもりです。
真夏にも必死になって通いましたが、それでもなかなかまともに
話もできない。
この時も本当に悩みました。
「自分はやはり営業向きでない・・・前任者には絶対勝てない・・・」
相手の懐に飛び込めないもどかしさを感じていました。
夏が過ぎ秋も深まってきた頃でしょうか。
その時はもう紅葉の季節になっていました。
その信用金庫に入る直前、赤城山の燃えるような紅葉が目に入りました。
本当に見事な紅葉でした。それは今でも目に焼きついています。


担当者に会った時、自然に言葉が出ていました。


今日の赤城山はすばらしいですね。」


堅物の相手が初めて笑顔を見せました。
多分地元でも一年に一度くらいそんなすばらしい赤城山が拝めるのでしょう。
それを褒められて本当にうれしかったのだと思います。
向こうから地元の自慢話をし始めました・・。
「これか・・・」
初めて相手の懐に入った感じがしました。
それからほどなく、その信用金庫は稼動し出しました・・・。


自分のセールスマン時代の究極のセールストークだったと
たまに懐かしく思いだされます・・・。




その18 自分を変えた長期研修


入社3年目で何となく営業というものが少し分かってきたのかもしれません。
でも法人課に移動したおかげで自分の人生を左右するような出来事に
遭遇しました。(少しオーバーか・・・)
実は、法人課に移ったことで、社内の長期研修に選抜されたのです。


当時、前にもご説明したように、証券会社は「株屋」的な古い体質が
色濃く残っていました。
とにかく「根性!」みたいな・・・。
つまり「頭で考えるより、身体を動かせ」という特異な営業体質です。


証券会社では「義理・人情・浪花節」という言い方も当時ありました。
結構このフレーズ個人的は好きだったのですが、
そういう古い体質とともに、結果がとにかく重要視されました。
「間接金融から直接金融へ」
「銀行に追いつき追い越せ」という風潮がありながら
一方で、過程はともかく、常に「結果」が求められる体質だったわけです・・・。
要するに、そういう体質から、当時は研修などあまり重要視されなかったと
いうのも言いすぎでしょうか。


しかし、その頃の野村證券の古い体質だけでなく、研修制度までも
変えようとする若き課長さんがいました。
その後あっという間に偉くなった方です。
(あまりに有名人なのでもちろん匿名で・・)


私自身もその方を尊敬もしていました。
その方が、長期の研修制度を多分始めて導入したのではないでしょうか。
3ヶ月間にも渡る長期の研修制度でした。
新入社員研修ではなく通常の営業社員向けの研修です。
3ヶ月間、研修寮に寝泊りして詰め込まれます・・・。
結構キツイ研修だったのですが、中には入社10年選手の方や
トップセールスマンのような方もいてかなり刺激をうけました。
しかも3ヶ月間も寝食一緒ですからかなり仲良くなります。
週末に飲みに行くのが本当に楽しみでした。
初めて「銀座」で飲んだのもその頃でした・・。(このお話はそのうち・・・)


しかし、そこで私の人生を左右する研修を受けました。(また大げさか・・・)
そうです。そこで初めて「簿記」の講義を受けたのです・・・・。
証券会社内で、初めて簿記の研修が行われたのです。(多分です)
株屋さんに「ハイテク」教育が初めてされたのです!?
まさに画期的な、自分の人生を変える研修でした・・・。





その19 簿記のボの字


20数年前の野村證券での簿記の研修がどんなものであったか。
これを公開することは守秘義務があるのでしょうか。
まあもうだいぶ前のことですし、時効!?でしょう。


何といっても証券会社における初の簿記研修!
どの程度の内容であったかというと、
内容はなんと!簿記3級程度でした・・。
経理担当者を集めたわけでなく、営業マン向けの研修です。
それも初めて「簿記」を習う「おじさん」向けの研修です。
いい年をしたおっさん達が、
「借方 仕入 貸方 買掛金・・・」
なんて習うわけですから、皆一同ちんぷんカンプンな訳です・・・。
今思い出しても懐かしいですが、確かに「こっけいな」光景でした。
それと、その研修課長の厳命で
「研修期間中に簿記3級を絶対に受かること」
というハードルを与えられていました・・・。
そういう社命があったせいか、悪戦苦闘して必死に習っていました。


でも教える側が、若いホヤホヤの会計士の人でした。
多分野村證券の人も「簿記」をどう教えていいのか分からなかったのでしょう。
いくら知識があるとはいえ、やはり教えた経験のない会計士の先生では
荷が重かったのでしょうか。
教え方は正直イマイチでした・・・。
会計が分かっていることと、会計を教えられることはやはり違うのです。
ただ、この経験はその後税理士として簿記講師をやった時に
かなり生かされました・・・。


簿記3級というのは、ご存知の方も多いとは思いますが
高校生でも楽に受かる試験です。
でも、頭の固くなったおじさんたちも必死になって勉強していました。
努力の結果、なんとか全員クリアしたと思います。


「何だ!今税理士として偉そうにしている割には、
最初はやっと3級受かったくらいのレベルか・・」
と突っ込まれてしまうかもしれませんが、
これは事実ですので正直に申し上げたつもりです。


ただこれがすぐ脱サラ=税理士に結びついた訳では
まったくありませんでした・・・。





その20 証券アナリスト


証券営業に簿記の研修。
これがその後定着しなかったことを見ると、単に実験的な研修だった
のかもしれません。
ただ、この研修のおかげで、「借方と貸方」の意味くらいしか知らなかった
商学士」も一応簿記というのを知っていると自慢できることには
なりました・・・。
その後、ここで簿記を勉強したことが数年後に
税理士を目指すことのきっかけになったのは事実です。
簿記会計について興味を持って勉強し、その面白さにも目覚めたのです。
単なる簿記3級程度ではありましたが・・・。


実はそのころ証券会社では「証券アナリスト」という資格が
脚光を浴び出していた時でした。
結局、簿記の研修はアナリスト試験に振り返られたのだと思います。
しかし、今はその証券アナリスト試験もなくなってしまったのでしょうか。
FP(ファイナシャル・プランナー)試験に取って代わられています。
証券会社自体もいろいろ試行錯誤していた時期なのでしょうね。


確かに、その頃から証券会社自体の体質が変わりつつあったのは
事実でした。
「義理・人情・浪花節」の「株屋」から「金融マン」に脱皮しようと
もがいていた時期なのでしょう。
単なる株の予想屋ではなく、
取引先へ会社の財務内容を教えてもらって、それに基づいて
提案営業するような「画期的な営業手法」
を目指そうとでもしていたのでしょうか。
銀行に負けない「ハイテク手法」を考えていたのでしょう!?


ただ、会社の掲げる理想的な目標とは裏腹に、営業店の現実では
「上がります。儲かります。」
という古い株屋的体質が根強くはびこっていたのも事実でした。


3ヶ月も「理想的な研修」を受けましたが、支店に戻ると
まったく変わらない日常があり、せっかく学んだことはあっという間に
忘れ去られてしまったようです。
研修課長スイマセン・・・。




その21 3日3月3年の法則


初めての赴任地高崎での勤務は3年で終わりました。
新入社員としての洗礼から、社会人としての研修、営業の初めての経験など
さまざまなことをこの地で学びました。
遠くに榛名山を見ながら必死に営業した思い、
本当に自分の原風景です。


ところで4月のこの時期、迎える新入社員に向け、
「オードリーの春日のように」偉そうによく言う私の言葉で
3日、3月、3年の法則
というのがあります。
会社で新人を迎えると必ず訓示として後輩に言っていました。
これは誰に聞いたお話ではなく、私の造語です。
その意味は、
「どんな人でも入社して3日、3月、3年の節目で一度は辞めたくなる
でもそれを乗り越えて頑張って欲しい」
これは本当に私のこの高崎支店での実体験です。


本当に3日でやめる人がいるかどうかは分かりませんが、
自分ではこの3日で社会人としての洗礼を受けました。
学生気分が吹っ飛んだ3日間でした。
3ヶ月というと、丁度新人研修が終わって、現場に出される時期です。
誰でも、ここで世間の冷たさや営業のつらさが分かる時です。
3年と言うと、丁度最初の移動がある頃ではないでしょうか。
初めての移動というのは誰でも結構ショックなものです。
でも、その節目に自分として成長したと本当に思っています。


3年目でこの野村證券を見切って、税理士でも目指せば良かったのかも
しれませんが、やはり、その節目の3年目で踏ん張り、
その後新たな職場で頑張ったことも、また自分自身を成長させてくれたと
本当に思っております・・。


次の新天地はあの商売の激戦区大阪でした・・。
ここからまた波乱があるのですが、
つい調子に乗って、昔話を長くやりすぎました。
読んでいる人も疲れたでしょうし、書いてる本人も「少し熱が入りすぎて」
疲れました・・・。
なかなか脱サラしなくてすいません。


そのうち「続・脱サラ編」をアップしますので、
取りあえず「炎の新入社員編」はこれで終わります・・・。

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