その1 我が青春のオニツカタイガー
マラソンシーズン到来ですからね。
絶好の書が出ました。Amazonですぐに買いました。
アシックスの創業者 「鬼塚喜八郎」氏の物語です。
私のマラソンシューズはほとんどがアシックスです。
昔からのアシックスファンだからです。
実はファン歴50年にもなります。
高校生になり、背が高い割には虚弱体質だった私が、
兄の影響により バスケットボールを始めました。
その時初めて買ったバスケットシューズがアシックスでした。
当時は「オニツカタイガー」といっていたのです。
大人気だったのがこの「オニツカタイガー・ファブレ」です。
バスケット選手はみな履いていましたね。
丈夫なうえ、実にかっこよかったからです。
でも全くの初心者の私は、最初は「布バス」でした。
「いつかファブレを履けるようにうまくなりたい!」
必死に練習しましたね。
高校2年生になって初めて買った時の喜びは今でも覚えています。
でも実際は結構重いのです。
しかも赤いファブレは履くと靴下が必ず赤くなる。
でもそのファブレで練習しましたね。
授業中もずっと履いていて、昼休みになると体育館へ行って
シュート練習。まさに「青春のシューズ」がオニツカタイガー
だったのですね。
バスケットボールは、残念ながら社会人になって卒業してしまいましたが、
50過ぎで始めたマラソンも当然アシックスです。
アシックスを履くことで青春がプレイバックするかのようで
躊躇なく選びました。
実は履いてみるとビックリするほど軽くなっていました。
それと個人的な理由から、実は私は「幅広甲高」なのです。
日本人固有のこの足の形状から、どうしてもアシックスなのですね。
マラソンであれだけ流行ったナイキの厚底シューズにも一切見向きも
しませんでした。
そんな熱狂的な「アシックスファン」が熱く語っていきましょう。
その2 何も知らないで靴を作る
主人公の鬼塚喜八郎氏は鳥取県出身です。
農家の3男2女の末っ子として 1918年(大正7年)5月29日に
生まれました。
21歳で徴兵検査を受け姫路市の陸軍に配属されました。
甲種幹部候補生の試験に合格し将校になりました。
でも幸いなことに戦地に一度も赴くことなく
終戦を迎えました。
軍隊で知り合った先輩の縁で鬼塚家に養子に
入りました。 この時、喜八郎氏は28歳でした。
鬼塚家は決して資産家でもなく、
神戸の地で まさにマイナスからのスタートでした。
「どこで何をしたらよいのか。
いや、そもそも、自分は何ができるのか。」
まあそうでしょうね。
ここからどうしてオニツカタイガーを起業したかを
ぜひ学び取ってください。
とりあえず食べるために闇市で働きます。
進駐軍用に割り当てられたビールを
手に入れるルートを確立し、 1本15円で仕入れて
120円で売りました……。 まさに「闇市」です。
「自分自身、何のために生きているのか」
もんもんと過ごします。
3年経って詐欺師のような仕事に見切りをつけます。
「まだ何も決めてはいないが、1つだけはっきりわかったことがある。
雇われ人はおれには向いていない」
そうなんですね。
サラリーマンに見切りをつけない限り起業はないのです。
そこで県の保健体育課長に勤める戦友からのアドバイスが
ありました。
「鬼塚、運動靴をつくらんか」
でも当然の答え。
「しかしスポーツシューズはどうやってつくるんだ。
おれは何も知らんぞ」
「安心しろ。ここは神戸じゃないか。日本一のハキモノの街、
ゴム靴の街だ。スポーツシューズに必要なものは、
すべて揃っている」
素晴らしい友人ですね。
この素晴らしい一言でアシックスは誕生したのです……。
その3 いちばん難しいスポーツシューズを
(創業当時の鬼塚株式会社)
鬼塚社長の起業物語はこの本で一番読む価値のあるところです。
31歳になった1949年(昭和24年)のことです。
まず神戸は、まだ焼け野原で瓦もないバラック住宅ばかりでしたが、
その中で 「鬼塚商会」を立ち上げ、すぐに「鬼塚株式会社」としました。
すぐ会社組織にするところが実にいいです。
でもそもそも靴づくりなど今までやったことがありませんでした。
それで、自宅から10キロメートル以上離れた
長田区の矢仲ゴム工業所に日参したのです。
当然ですが、靴づくりの技術を習得するためですね。
何だか読んでいて胸が熱くなりましたね。
私も31歳で脱サラし、経理の技術を習得するために
会計事務所に見習いで飛び込みましたからね。
今思えばそんな修業時代もその後の成功のためには
必要なのでしょう。
私は4年間も滅私奉公しましたが、
鬼塚氏はわずか1年で
修業を終えたのです。
ここが私と違うところですね。
もっと決定的に違ったところは、
その世話になった社長に対して、
「自分のスポーツシューズを生産したいのですが、
私は無一文同然で工場を建てることも、
従業員を雇うこともできません。
そこで、 ちょっとお願いがあるんです。
私が考案した靴を、 ここでつくってもらうことは
できませんか」
堂々と言い放ったことですね。
つまり、「私の下請けになってください」
ということなのです。
なかなかというか、絶対に言えません。
「私はこれから税理士になりますから、
ここで私の仕事の入力をしてください。」
とは絶対に言えるはずがなかったですから・・・。
それくらい言えるくらいの力量があったら、
今頃私は日本税理士会連合会の会長くらいには
絶対なっていたでしょう・・・!?
さらに
「いちばん難しいスポーツシューズからつくろう」
そう思ったことです。
「誰もやっていないことをやる。
どんなによいものをつくっても、
物真似はやるだけムダだ」
これは参考になりますね。 ブルーオーシャンを目指す
という起業の鉄則です。
バスケットボールシューズの開発のために
毎日、神戸高校の練習を見に行って観察します。
それでも起業してわずか2年後、
1951年に「吸着盤型バスケットボールシューズ」 を
開発してしまうのです。
その4 スポーツマーケティング
素晴らしいバスケットボールシューズですね。
私が高校生の頃履いていたものとほぼ同じです。
無一文で起業してたった2年で開発してしまうところが
本当に素晴らしいです。でもここからが本番なのです。
つまり、商品開発したものの、必ずすぐには売れないのです。
これはどんな起業家でも必ず通る道です。
いまなら「ホームページで」とか「SNSで」とか、
あるいは「MAKUAKEで」と考えますね。
当時はホームページもSNSも、それこそMAKUAKEもない時代でした。
どうやって売ったのでしょうか。 これもこの本を読む価値のあるところです。
まず、従来からの商慣習である問屋回りをやりました。
「これは見たこともない、斬新なバスケットボールシューズや。
うちでやらせてもらう」
という甘い展開を夢想していたのですね。
起業家の立場では皆そう思うのかもしれません。
でも現実はそう甘くないのです。
これもよく聞く話です。 SNSやYouTubeで簡単に売れると思っている起業家も
多いですが、そう簡単でもありません。
でも鬼塚氏のすごいところは、従来の慣習にあっさりと見切りを付けたところです。
これこそ「ベンチャー・スピリッツ」ですね。
国体などに出向き、有名選手やコーチに
「お金はいりません。オニツカの製品を無料で提供しますから、
気になる点を指摘してください。
そうしたら改良して、また持ってきます。」
トップ選手に狙いを定める「マーケティング戦略」は、
見事にヒットするのです。
今なら当たり前にある「スポーツマーケティング」と
言われるものを、自ら思いついて実行したのです。
さらに問屋に卸すことを止めて、「直販ルート」を開拓します。
「直販ルート」というと聞こえはいいですが、
まさに「行商」です。
リュックサックにシューズを詰め込み、全国のスポーツ店を
回り歩いてオニツカのシューズを売りまくったのです。
「ひと月のうち22〜23日は運動具店まわりでした。」
でもメーカーが直接小売りと取り引きするというのは、
「問屋制度」を否定する禁じ手なのです。
それをあえて実行したのこの行動力は本当に感心します。
すごいですね。 YouTubeを100本くらい作って、
「こんないいものが売れない!なぜだ?」
と嘆いている起業家の方々に、
ぜひ読んでいただきたいところです。
その5 軍隊式経営
新型バスケットシューズが誕生した1951年(昭和26年)
のことです。
鬼塚氏は33歳で結婚します。
これからというときに、その半年後、喀血します。
なかなか起業は大変なのですね。
当時、結核は死の病でした。
「うちの会社はいまが生きるか死ぬかの正念場だ」
無理してでも働きます。
1953年(昭和28年)には30万円の手形の支払いができず、
不渡りの危機に陥ります。
最後の望みを託したのは、1年間、靴づくりの修業を
させてもらった あの矢仲ゴム工業所の矢仲社長
でした。
肩代わりしてくれたのですね。 ここは感動しました。
結局、結核が完治したのはアメリカ製の新薬に
よるものでした。
そこで、のちに副社長となる橋本義男氏が入社します。
陸軍時代の部下です。
この方はまさに右腕になるのですね。
会社が成長するにはやはりこの「右腕」が
絶対に必要なのです。
翌年に社員寮を完備して、この橋本氏とともに
「軍隊式」で 若手社員を鍛えます。
「早朝のランニング・ラジオ体操など身体の訓練もある」
ちょっと古めかしいですか。
書きながら思い出しましたが、40年前の某野村證券も
社員寮で朝からランニングさせられましたね……。
1959年(昭和34年)にはオニツカの売上は3億8000万円
従業員も130人でした。でもまだまだ当時としては
スポーツメーカーのベンチャー企業だったのです。
1960年(昭和35年)。私が生まれた年ですね。
この記念すべき年に「マメのできないマラソンシューズ」が
考案されます。
「マジックランナー」ですね。
これも聞いてうれしくなりますね。
私もランナーですからね。
私が現在愛用しているのはアシックスの「マジックスピード」
ですから……。
その6 オリンピックが会社を強くする
1964年(昭和39年)アベベがマラソンで
優勝しましたね。
でも、2位の選手と3位になった円谷幸吉選手は
オニツカを履いていました。
アベベに何としてもオニツカを履かせたかった
のでしょうけど、そのあたりのお話は結構生々しいです。
次の4年後のメキシコオリンピックに向けて、
「メキシコライン」が誕生しました。
オリンピックのたびにドラマがあったのですね。
ミュンヘンオリンピックで男子バレーが金メダルを取ったのも、
オニツカでした。 これは、私も小学生だったのでよく覚えています。
「ミュンヘンへの道」というテレビが大人気でしたから。
また、モントリオールオリンピックで1万メートルの決勝前夜、
二連覇を目指すビレン選手から「スパイクを2ミリ削れ」
という要求がありました。
現地でスタッフが見事にその難題に応えたのだそうです。
これは後年アシックス内で武勇伝と語り継がれるネタです。
それに成功し、本当に金メダルを取ってしまうのですね。
なかなか素晴らしい仕事です。
アシックスを抱えた選手がビクトリーランしてくれたら、
これ以上の宣伝効果はないですからね。
「4年刻みの『戦争』が会社を強くした」
まさにそうなのでしょうね。
時代は飛びますが、2000年(平成12年)のシドニー
オリンピックでの 高橋尚子選手の金メダル。
2004年(平成16年)のアテネオリンピックでの
野口みずき選手の金メダル。
写真で分るでしょうか、確かに履いていますね。
この2連覇もアシックスシューズですからね・・・。
その7 アシックスは何度でも起き上がる
2007年(平成19年)9月、鬼塚喜八郎氏は89歳で亡くなります。
生前から
「親族に経営を譲ることは絶対にしない」
と言っていて、その言葉を守ったのです。
鬼塚氏の経営理念である
「企業は公器なり」
という言葉がそれを表しています。
「事業はみんなのものだ。社長のものでも、重役のものでもない。」
上場に際しても持ち株を従業員に配ったくらいですからね。
オニツカからアシックスへと三社対等合併した際にも
その精神が守られたのですね。
でも、喜八郎氏が亡くなった翌年の2008年に社長になったのは、
尾山基氏です。 長女である尾山恵美子の娘婿だったのです。
喜八郎氏の遺言を破ったかのように、私は思えてしまうのです。
その後のこの本の表紙のように、ナイキの猛追を受けます。
オリンピックで圧倒的な力を誇っていたアシックスでしたが、
2021年1月2日、箱根駅伝出場ランナー210名のうち、
アシックスのシューズを履くランナーは一人もいませんでした・・・。
これは私も最近のことですからよく覚えています。
永年のアシックスファンとして屈辱の忘れられない日ですからね。
また、その年に行われた東京オリンピックの陸上競技において、
マラソンを含めた中長距離レース10種目では、
アシックスはメダルを一つも取れなかったのですね。
2022年元旦の新聞に掲載された広告です。
喜八郎氏から熱い「喝!」です。
これこそアシックス精神です!!
わたしたちは、何度でも起き上がる。
2021年1月。レースから、アシックスのシューズが
姿を消した。
たとえ何度負けようとも、わたしたちは前を向く。
前に進むことは、苦しいことの連続だ。
けれど、走ることと向き合うことを決して諦めない。
誰よりも真剣に、走りと向き合う。
負けっぱなしで終われるか。
BEAT YOUR BEST.
打ち破れ、自分の限界を。
(頑張れ!アシックス!私も履き続けます!)