その1 マツダ低迷の時代
自動車のお話です。
先月もあえて不得意な分野である「デザイン」を取り上げましたが、
実は「自動車」も不得意な方であえて読んでみました。
車については、地方勤務の時、必要に迫られて自動車を買っていましたが、
それほどカーマニアというより、ただ走ればよいという考え方。
「税理士だからドイツ車くらいは・・・」
と一時乗り回していましたが、それも今はホンダのエコカー。
運転自体もあまり好きでもないし・・・。
マツダと聞いてやはり車種もよく知らないのですね。
まあ、何といってもアニメ「巨人の星」を見て育った世代ですからね。
マツダ=広島カープ というイメージが強すぎて、
あえて避けていましたね。
東京人がマツダの車を乗ると、大阪人が「東京に魂売った」と
よく言われるように、
ジャイアンツファンから「カープに魂売った」といわれるのでは
ないかと・・・・。(すいません。)
題名の「逆転の経営」というのはまさに「逆転の広島」のようですね・・・。
・・・と野球の話はよいのですが、この本は真面目に
広島カープの話題は一切触れず、まさに「逆転の経営」そのもの。
今やその広島カープのように、マツダ自体の業績も絶好調なのですね。
ではまずマツダの低迷時代のお話から。
バブル景気前の1981年。当時マツダは国内販売台数は
トヨタ日産には大きく離れますが、第三位でした。
ここに空前のバブル景気が訪れます。
時の経営者は「国内シェアの倍増」を狙って、
「B−10計画」を打ち出します。
つまり、10年後の1993年に、「国内シェア10%・販売台数80万台」
を目指したのです。
当時のトヨタが販売チャネルを5つもっていたので、
それにならって5チャンネル体制にしようとしたのですね。
当然、それに合わせて車種の開発。
「クロノス」、「アンフイニ」、「ユーノス」・・
すいません。個人的には車種がよく知りません・・・。
その後お分かりの通りバブル崩壊・・・。
販売台数を達成するために値引き合戦。
それでも売れないから、最後は従業員3万人に対して
販促を始めるまで・・・。
「1人1台買ってくれないととても目標台数は達成しない・・・。」
ひどいですね。
下取り価格が低いから一度マツダの車を買うと、
マツダから乗り換えられない「マツダ地獄」という言葉も
できたほどらしいです・・・。
このあたりからマツダ車の価値はどんどん低下・・・。
業績は低迷し1996年、ついに米フォードの傘下に入ります。
その後も大規模な人員整理に踏み切るなど苦境に。
まさに「マツダ地獄」・・・。
その2 ついにアメリカに魂売った・・
マツダの業績は坂を転げるように落ちていきます。
1991年には146万台まで伸ばした販売台数が
5年後の96年には半分の76万台へ。
94年には489億円もの最終損失を計上。
翌95年にも411億円にも411億円へ。
96年にはついにメインバンクである住友銀行が動き
フォードの傘下に入ります。(株式の33.4%を取得)
ついに、「アメリカに魂を売った」のです・・・。
因みに1991年に山本浩二監督率いる広島カープが
優勝し、その後の優勝は2016年の緒方監督まで長らく
低迷します。
個人的にはよく経営を手放さなかったのかと思いますね・・・・。
フォード傘下入りしたマツダの初代「車両先行設計部部長」
に就任したのが金井誠太氏。
この本の主人公ですね。
生粋のエンジニアで後に開発本部長になったあとは
開発管理担当、研究開発担当の役員になり、
さらに常務、専務取締役、代表取締役副社長、会長まで勤められた方です。
広島カープの「ミスターカープ」と言われるのが
山本浩二なら、金井氏は
まさに「ミスターマツダ」なのでしょうね。
「マツダ地獄」を自ら経験し、
その瀕死のマツダを救った方だからです。
それでも当時フォードから送られてきた外国人社長のもと、
新車開発のプロジェクトは全面的に見直されます。
「マツダデジタルイノベーション」(MDI)もその一つ。
要するに
「クルマの開発・実験・生産までをすべてデジタルデータで統合し、
コンピュータ上でやろう」
ということ。
なかなか先見の明がありますね。
今でいえば最先端の「AIの導入」なんでしょうか。
モノ造りを全部3D(3次元)化するのですね。
最終的には途中で試作車を作らずに、事実上の最終の図面の出図から
いきなり量産というのが目標。
これは世界中の自動車メーカーが目指いしていた先取りの計画。
でも実際は簡単ではなかったそうです。
検討が始まったのが94年。
フォードと提携する前からですね。
提携後の96年から本格的に始まり、2005年発売された
「ベリーサ」まで10年かかったそうです・・・・。
その3 アテンザにマツダ復活を賭ける
フォードの傘下に入ってもマツダの苦境は続き、
2001年についに希望退職の募集に踏み切ります。
1800人の枠に2213人が応募。
この時がマツダの「どん底」だったのでしょう。
因みにこの頃は広島カープも5位が指定席の「どん底」・・・。
この頃マツダが使い出したキャッチフレーズが
「ZOOM−ZOOM」
これ今でも使っていますね。
広島市民球場のことを
「MAZDA ZOOM−ZOOMスタジアム広島」
というのですね。
「ZOOM−ZOOM」
とは子供がミニカーで遊ぶときに「ブーン、ブーン」と口にしますね。
それを英語で「ZOOM−ZOOM」
「子どものときに感じた『動くこと』への感動。憧れを持ち続ける方に、
楽しくなるような、心ときめくドライビング体験を提供したい」
という意味です。
その金井氏が新生マツダの第一号となる「アテンザ」の
開発主査に就任。
そしてその金井氏が掲げた「志」
「最高で超一流。最低でも一流」
というのは、当時のシドニーオリンピックの女子柔道で
金メダルを取った田村亮子の「最高で金、最低でも金」
をパクったそうです。
「野郎ども、一歩も引くな。俺がついているぜ」
という志です。
なかなか魅力的な上司ですね。「心を燃やす」とはこのことですね。
マツダ復活をかけた「アテンザ」の開発。
まさにNHKの「プロジェクトX」にでてきそうなお話でした。
こうして2002年5月に発売された初代アテンザはこれまでのマツダ車の
イメージを一新する大ヒット車となり、2代目に引き継ぐ2008年までに
全世界で132万台を販売し、
「RJCカー・オブ・ザ・イヤー」をはじめ国内外134の賞を受賞。
これでようやくマツダは復活します・・・・。
まさに「プロジェクトX」ですね。
「風の中の〜♪ ス〜バル〜♪」
中島みゆきの歌が聞こえてきそうですね。
でもスバルでなくてアテンザですか・・・・!?
その4 マツダ車の個性とは
ではマツダの車のお話。
なかなか勉強になりますね。
では私が知っているマツダらしい車から。
なんといっても「サバンナRX−7」(初代 1978〜85)
ミニカーでは一番人気でしたね。
まさに子供がそれもって「ブーン ブーン」、つまり
「ZOOM−ZOOM」
と遊びますね。まさにこれこそマツダの原点。
あとは「赤いファミリア」(5代目 1980〜85)
これも運転すると良く見かけました。
あとカッコイイと思ったのは
「ユーノス・ロードスター」(初代 1989〜97)
このあたりまでは分かるのですね。
では次の写真。
これは2012〜17年の間に発売されたマツダの
車6種類です。
屋根のないスポーツカーから伝統的なセダン・ハッチバックに
SUVまで。
見た瞬間に分かりますね。
すべて「同じデザイン」で造られていますね。
2012年以降の車をマツダでは「第6世代」と呼ばれるのだそうです。
デミオ、アクセラ、CX−5、ロードスター、アテンザ。
すいません。
私にはどれがどれだか分かりません。
1980年代のあの個性的な車、これこそマツダと思っていたのと
かなりかけ離れていますね。
これを企画設計し、まさに主導したのが、金井誠太郎氏。
個性をなくした「金太郎飴」。
つまりどれも同じにしたのです・・・・。
その5 金太郎飴
この本で一番面白いと思ったのがこの「金太郎飴」。
お分かりになりますか?
解説してみましょう。
1980年代に時のマツダの経営者が
「トヨタ・日産に追いつき追い越せ」
として販売チャネルを増やし、販売台数倍増計画を
打ち出しましたね。
結果的に「売れない車」を量産し、この戦略は大失敗。
外資の傘下に入り、希望退職まで募り、事実上マツダは破たんしかかった訳です。
金井氏をはじめとする次の経営者達は賢かったのです。
「トヨタ・日産とは体力が違う。マツダらしい車を作ろう!」
そう考えた直したのですね。
このあたり中小企業の経営者には参考になりませんか?
しかも車という製造業はやはり普通のビジネスとは違うのです。
「企画から量産開始までの期間はだいたい3年。でもその際に
2つ先のモデルチェンジがあるとして9年先まで想定してやるべき」
金井氏の指示です。
それまでの経営者は
「走りながら考える」経営だったそうです。
何だかこの「走りながら考える」なんて、「行き当たりばったりの」中小企業では
結構ありがちですね・・・。(失礼!)
「違う車種同士の共通化を最初からスコープに入れて考える」
そうです。
どういうことかというと
この絵を見た方がもっと分かりやすいでしょうか。
これがマツダ車の「プラットフォーム」。
この上にエンジンが載り、サスペンションが付き、ピラーが
立ち、ボデーパネルが被せられるのです。
プラットフォームこそがまさにクルマの土台なのですね。
このプラットフォームを長期的な計画を基に設計しておけば
長期的な観点から無駄がでないのです。
つまり、異なる車種でも共通でいい「固定部分」と
クルマによって変えねばならない「変動部分」を分けることが
できるからです。
「金太郎飴」の意味が分かってきましたか・・・。
「マツダ地獄」を味わったときに、あらゆる「無駄」をやってきたからこそ
分かるのでしょう。
これはあらゆる業種業態でも通じるお話ではないでしょうか。
その6 PDマネジメント
最近マツダが脚光浴びているのはココなのです。
お分かりになりますか?
日産がゴーン事件でガタガタになっているときに
普通の(もしくはバブル以前の)経営者なら、
「業界2位の日産に追いつき追い越せるのは今だ!
トヨタの背中が見えてきたぞ・・・」
そう陣頭指揮し、ハッパかけるのではないでしょうか。
新しい車種を開発してどんどん販売していくのですね・・。
でもまさにそれこそが、マツダが大失敗した経緯でしたね。
金井氏も正直に書いてありましたが、
「かつては「世界初」とか「日本初」の新しい技術が大好きな社風で、
『オールニュー』が大好きな会社でした。
『旧モデルをいったん白紙にして全部やり直し』です・・・」
「『オールニュー』はある意味、日本企業がバブルまでに
身につけてしまった悪いクセなのかもしれません」
冒頭書いたように「走りながら考える」というもの
バブル時の考えだったのですね・・・。
「PDCAサイクル」の批判もなかなか勉強になりました。
「PDマネジメント」と「CAマネジメント」と分けて考えるのです。
分かりやすく言えば
「走りながら考える」というのは「CAマネジメント」
では「走る前に考える」というのは、まさに「PDマネジメント」
マツダは「走るながら考える」社風だったから、
過去は当然「CAマネジメント」が中心。
これにより、かつてはそうとうなムダをやったのです。
そのムダが高じて会社が傾いてしまったのですね。
「ムダが起きないよう」に徹底的にPする(考える)作戦なのです。
つまり、「走りながら考える」という体質は「考えるのが面倒だから」
という言い訳に過ぎないのですね。
少し手厳しいですか・・・。
でも、「間違いがゼロのプランなんてありえない」のですね。
「これから起こるであろうという事態を完璧に読み切るなんて無理」なのです。
それはそうでしょうね。
でもここでまた勉強になりました。
「いつ、誰が、どういう理由で決定したのか」
明記しておくのです。
ここで、大事なのは間違った責任問題ではないのです。
「誤った決定に至ったのは、どの前提が変わったからなのか」
がすぐ分かり、
修正するポイントが明確になるからです・・・。
マツダのすごさがだんだん分かってきましたか・・・・。
その7 ジャパン・プライド
熱く語ってきたマツダシリーズをそろそろまとめましょう。
マツダがなぜ脚光を浴びているか分かってきましたか。
当たり前ですが、決して広島カープが強いからではないのですね。
令和新時代に向けて、「企業生き残りの方程式」を示しているから
なのですね。
トヨタ日産を追いつき追い越そうなんてことは絶対思わず、
自分の会社の体力・実力を見極めているのです。
「マツダらしい車を作ろう!」
としているだけなのです。
何だか「ジャパン・プライド」を感じませんか。
「マツダらしい」というのは、
「EVやHVに頼らず、環境性能達成、そして走りは楽しく」
これこそがマツダのスローガン。
トヨタの「プリウス」に代表されるようなハイブリッド(HV)
エンジンでもなく、将来性を見込まれているEVでもないのですね。
従来からの「スカイアクティブ・エンジン」。
私も勘違いしていたのですが、燃費がいいのはHVと信じて
今はホンダのHV車に乗っていますが、マツダ車もリッター30は
出すんだそうです。
他の自動車メーカーが「燃費や低価格」として、このHVを
前面に販売している中で、真っ正直なクルマで勝負している
のですね。
それとご紹介したとおり、長期ビジョンに立って
向こう10年の製造計画を立てて、
「今後10年間のマツダの全車種がいつでもどこでも造れる工場」
になっているのです。
平成までのビジネスモデル「いいものを安く」から
令和の時代は「いいものを高く、しかも効率よく」
製造業としてのよいお手本ではないでしょうか。
すごいエンジンらしいですね。
本当に「ジャーマンスリー」(ベンツ・BMW・アウディ)から
マツダ車に乗り換える人が出てきているのだそうです。
何だかマツダの車に乗ってみたくなってきましたか。
しかし、間違ってもカープファンにはならないとは
思いますが、一度くらい「カープに魂売って」
みようかと思っています・・・。
(ガンバレカープ! がんばれマツダシリーズ おしまい)