その1  夢をかなえるゼイ再スタートの理由



吉田事務所のホームページをリニューアルしてしばらくしてから
トップページに「夢をかなえるゼイ」のボタンをつけてみました。
過去のブログでアップしたものをすべて再編成してみたのです。


修正しながら、つい読み返していたら、あの頃の熱い気持ちを思い出して
しまいましたね。
手前味噌ながら、結構まとまっていると思いますので、ぜひ一度お読みください。


でも気がついたのですが、脱サラした経緯や、独立開業した苦労話は
これである程度お話できたと思うのですが、脱サラして税理士を目指した肝心の
「もっとも夢をみていた頃」が抜けているのに気がついたのです。


実は、明日から税理士試験なのですね。
受験会場にクーラーもなく、汗だくになって答案用紙に食らいついていたあの頃を
今でも忘れることはできません。


必死になって取り組んでいたあの頃、長く辛かった受験生時代。
でも今思い返せば、
「税理士になって・・・したい」
「税理士試験合格したら・・・」
と自分の夢を毎日追っかけていたのですね。

 

「3.11」以来、人生の生き方を問い直す人が増えてきたとよく報じられています。
「自分の人生って何だろう?」
「自分は何をしたかったのだろう?」
そう自問し悩んでいる人も、きっと今多いと思います。


被災者の方々の中では、自分の生まれ育った思い出深い家が流され、
かけがえのない家族も失い、本当に夢も希望もなくなった方もいらっしゃるはずです。


多分夢を見ることを忘れているのかもしれません。
夢を見ることのすばらしさ思い出して欲しい。
そしてそれが叶うことの喜びもぜひ味わって欲しいと
心から思います。
夢があるからこそ、希望が持てるはずだからです。


先日、ワールドカップで優勝した女子サッカーの沢選手が
実にいいこと言っていました。


「夢は見るものではなく叶えるもの」


夢を見るだけでなく叶える努力をすること、それを沢選手からも教わりましたね。

 

明日からの税理士試験にチャレンジされる方もいるのでしょう。
もっと多くの方が夢を持って税理士試験にチャレンジして欲しい。
日本復興のため、今こそ優秀な税理士がたくさん必要なのです。


日本人の多くの方に、忘れかけている夢を見つけて欲しいからこそ
もう一度「夢をかなえるゼイ」をこれからスタートしていきます。


私のブログをきかっけに、夢をもって税理士試験にチャレンジする人が
被災された方の中から一人でも出てきてくれたら望外の喜びとなるでしょう。





その2  いよいよ炎の受験生編スタート



さて、時計の針を20年位戻しましょうか。
平成4年(1994年)5月。私は野村證券を退職しました。
辞表を人事部長に叩きつけたお話は、「炎の脱サラ編」でアップした
とおりです。


退職すると分かってからの数日間は実に慌しいものでした。
連日の送別会。
「どうして辞めるの?」
皆に聞かれました。


「辞めて税理士になるのさ。そのためしばらく働かないで簿記学校に通うのさ・・・」


まだバブル景気の余韻があった頃です。
高額で外資系証券にヘットハンティングされる同僚も多い中、
無職になってまで税理士を目指す者を、皆好奇心の目で見ていました。


ちょうど当時流行ったテレビドラマの影響でしょう。
DINKS(Duble Income No Kids)という言葉が、よく言われていました。
バブルという好景気を子供作らず共働きで生活を楽しもう!
そんな時代背景でした。


「DINKSどころか No Income Two Kids さ!」
そう笑って答えていました。


「働きながら税理士を目指したら」


そういってくれる友人も何人かいましたが、
あの頃は、自分の夢のために第一歩が踏み出せたことで
意気揚々としていました。
とにかくあの頃は一刻も早く税理士になりたかった。


「証券業界から税理士業界に殴り込みだ! 税理士業界に一泡吹かせてやる!!」
自信満々でそれくらい怖いものがなかったのです・・・。


でも浮かれている私に、「頭からバケツで水をかぶせるような」大事件が
すぐ起きました。
その晩、野村證券から電話がかかってきました。


「キミの住んでいるマンションは会社の借り上げ社宅だから、即刻退去してくれ!」


「えっ・・・・?」


実は、お恥ずかしい話、まったく予想もしていなかったことでした。
当時駅近の家賃15万円の高級マンションに住んでいました。自己負担は1割ほど。
本当に景気が良かった時代ですね。


無職で無収入の人が高級賃貸マンションなんて借りられるはずがありません。


「今度の夏、税理士試験を受けてすぐ税理士になりますから・・・」


今だから言えますが、不動産屋にはハッタリのような大嘘をついて
再契約してもらいました・・・
退職金をはたいて敷金と礼金を差し入れた上、
その後無職ながら自腹の15万を毎月払わされるのは確かにきつかったですが、
脱サラの洗礼をうけたような出来事だったのです。


でも、まだまだそんなことは序の口のお話でした・・・。
これから波乱万丈の「炎の受験生編」スタートです!





その3  脱サラの洗礼




会社を退職した人がまず何を感じるか正直に書いてみましょう。
これは本当に会社を辞めた人ではないと分からない気持ちでしょう。


まず、何といっても、日中ジーパン姿でいることが
最初異常に恥ずかしかった。


今から20年も前のお話です。
あの頃はサラリーマンというのは、ネクタイしてスーツ姿が定番の
まさにユニフォームでした。


今でこそ、クールビズや、エコでノータイ、ノージャケットが当たり前、
IT関係など、最初からスーツも着ないでジーパンで働く会社も多いですね。
あの頃のサラリーマン、特に金融機関は、ダークグレイか濃紺のスーツに
地味なネクタイがお決まり。


それが急にTシャツジーパン姿のギャップに苦しみましたね。
本人は、開き直っているくらいでいいのですが、やはり世間の目があります。
それを一番感じたのは家族でしょう。


そのころは子供が幼稚園に通い出していましたから、
その幼稚園関係の知り合いも、隣近所にたくさんいました。


それが平日昼間にでも、それこそジーパン姿でうろうろしていたら、
「〇〇ちゃんのお父さんはリストラにでもあったのでは・・・」
すぐ噂されてしまいますからね。


それで、ご近所の方々に会わないように、やむなく朝は6時頃から家を出て、
深夜10時頃にこそこそ帰ってくる行動パターンとしました。
日中どこに行くかというと、当然ですが、簿記学校です。
朝の7時開門と同時に、自習室に篭もり、授業があればそれに出席し、
終わるとすぐ自習室に直行して、ひたすら簿記の勉強をしていました。


実は、授業中にスーツ姿の人も何人も見ました。
朝の授業ですから、多分仕事していない人でしょう。
思い切って声をかけてみるとやはり、
「世間体があるので、朝必ずスーツ姿であたかも出勤するように・・」
といっていましたね。


その気持ちよく分かります・・・。



でも、そんな格好を気にしているくらいなら脱サラなんか
しない方がいいのです。
ただ今ならどんな格好していても変には思われないですから大丈夫でしょうけど・・。


しかし、もっともっと厳しい脱サラの洗礼をのちのち受けることになりました・・・。




その4  ザブトンの人



脱サラして一ヶ月くらいはあっという間でした。
ようやく簿記学校に毎日通いだしましたが、
何が苦痛かというと一日中座って勉強していることでした。


勉強すること自体は自分から望んでいたのでそれは良かったのですが
じっと座っていることは正直キツかったのです。


それまで証券マンとして一日中飛び回っていましたから
昼過ぎくらいになるとお尻が痛くなってきます。
やむなく家からザブトンをもってきて敷いていました。


簿記学校には不思議とザブトンを持ってくる人は私しかいなく、
すぐ「ザブトンの人」として、名が学校中に知れ渡っていました。


早朝7時に開門と同時に、自習室の私の「指定席」を陣取ります。
夜の9時半頃に守衛さんが見回ってきて追い出されるまで
そこで一日中電卓を叩いているのです。


実はそれまで、バブル全盛の証券マンとして、毎日のように
昼は日本橋のデパートでグルメランチを食べ、
夜は銀座でハシゴしていました。


先日アップしたように高級賃貸マンションに住み、
ボーナスを入れたら4ケタはもらっていたかもしれません。(内緒)


一般論としては当時は人のうらやむような生活だったかもしれませんね。
でも、そんな生活をすべて捨て、180度変わった環境で
一から勉強し直す覚悟でした。


本当にそれまで、証券マンとして、白いカッターシャツを着て、
仕立ての良いスーツをまとっていたのに、
きたないTシャツにジーパン姿で、一日中電卓と格闘していました。


そんな生活でも、自分のやりたかったことを、早朝から深夜までできることで
まったく苦痛にも思わなかったのです。


「税理士試験に合格したら・・・」

「税理士になったら・・・」

夢を見る楽しさ、喜びをここで再発見したのです。


一度しかない人生。
自分の好きなことをやりたいと本当に思いませんか・・・。




その5  スタートした時のレベル



これから税理士試験を目指そうとされる方がこのブログを
読まれるかもしれませんね。


正直に自分の当時のレベルを書いておきましょう。
ここは一番知りたいところでしょうから。
ここでミエをはっても仕方がないですし・・・。


その年、会社に勤めながら、確かに簿記論を勉強し出していました。
その選択していた授業が、「土曜日のロングクラス」。
これは会社に働きながら受かろう!というクラスで
通常週に2回ある授業を一日で消化する、かなりヘビーな内容でした。


しかし土曜日は、前の日の金曜日に飲むことが多かったのです。(言い訳)
だいたい2、3件飲んで帰ると2時か3時!?
よって土曜日に簿記学校行っても、もう出席しているだけ満足して
だいたい寝てばかりいました・・・。
(これは正直なお話です)


あとバブルの当時、平日は、深夜10時か11時までは働いていました。
当然ながら、そこからまた飲みにいくことも・・・。
ということは平日の勉強はまったくできません。(言い訳)


では日曜に勉強していたかというと、疲れて寝ていたり、
たまにお付き合いの下手なゴルフ・・・。(また言い訳)


ということは、バブル時代を謳歌していた私は
実は簿記論を真面目に勉強してはいなかったのですね。
会社の研修で簿記検定2級を取らされたのは、前にアップしたとおり
ですが、事実それほどのレベルではなかったのです。


よく聞かれるのが
「野村證券に勤めながら税理士試験の勉強をしていたのですか?」


正直言ってあの頃、証券会社に勤めながら勉強なんかできる訳ないのです。
会社退職してから、つまりゼロから始めたのが事実です。
その時の年齢は31歳!


どうですか?安心しましたか?
もう辞表叩きつけて税理士試験受けたくなりましたか?




その6  簿記論受験終了



本試験までの2ヶ月間はとにかく必死でした。
もうがむしゃらに簿記を勉強していました。


ただ、今まで勉強したくてもできなかったことが
思う存分できる訳で、嬉々として取り組んでいました。


税理士試験対策を行っている専門学校では、
どこでも通常5月頃から「本試験対策」として、
試験レベルの難易度の高い問題を解くようになります。


退職してすぐ、その授業に出始めましたが、正直まったくついていけなかった。
ほとんど勉強していなかったのはアップしていたとおりだからです。


それでも何としても合格したい私は、担当の簿記論の講師に無理言って、
秘策を聞きだしました。
その先生は、基本問題集を最低3回は解くように指示されました。


「大丈夫です。これ3回解いただけで受かった人がいますから」

まだまだ受験ビギナーだった私はこれを真に受けて、本試験までの2ヶ月間、
この基本問題集をひたすら解きましたね。


「会社辞めてまで取り組んでいるのだから受かるだろう。」

合格したい気持ちは誰にも負けないほど強かったものの、
やはりこの頃は税理士試験を多少甘く見ていたのかもしれません。


そうこうしてすぐ8月の本試験。
2ヶ月間の必死の努力の甲斐があってか、不思議と何となく手ごたえがあったのです。

 

その後何度も苦労させられた税理士試験。
「できた!できた!」
と騒いでいる時こそ、不合格の絶望感もイヤというほど味わいました・・・。


でもこのときは


「ひょっとして逆転ホームランか・・・」
「あと四科目!」


合格した自分の夢ばかり見ていました・・・。




その7  税理士試験必勝法



専門学校の授業はほとんどが9月から開始します。
それで8月の本試験からそれまでの間は、これまた必死になって
専門学校回りをしました。
当時水道橋から神保町あたりに4、5校の専門学校はあったでしょうか。
そのすべての入学ガイダンスにでて、これから「自分の人生をかける」専門学校を
真剣に選んでいました。


でもここらあたりから、今更ながら
「税理士試験とは」
「税理士試験をいかに合格するか」
これを必死に考えるようになりました。


そんな工夫から後日ですが、
「税理士試験本」が書けるようになったのですね。

 

 

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自慢ではないですが、税理士試験の本を2冊も書いたことある税理士は
私くらいでしょうかね・・・。
(そのノウハウはこれから小出しにしていきます)


その一方で、ある秘密訓練を開始していました。
それは、「電卓のブラインドタッチ」の練習です。
それまで人差し指一本で打っていましたが
これは当時、かなりコンプレックスに感じていたことなのです。


脱サラして、昼間の自習室に潜り込んだ時のことを
今でもハッキリ覚えています。
皆実に軽やかに、まるで「音楽を奏でるように」電卓を叩いていたのです。
これは正直驚きでした。
しかも目は問題用紙に釘付けで、電卓なんて見ていません。
「これでは勝てない」
そうまで思いました。


パソコンがかなり普及して、ブラインドタッチで入力できる人が
ずいぶん増えましたね。
あれと同じように、電卓を見ないで叩くのです。


どうやるかというと、
1、4、7は人差し指
2、5、8は中指
3、6、9は薬指で 叩くのです。
ただ、0は親指派(カシオの電卓)と人差し指派(シャープの電卓)に
分かれます。(私はカシオ派です)


ブラインドタッチの教則本を買い込んで、必死になって練習しました。
生まれて初めて指の筋肉痛も味わいましたね、


おかげで、それまで「人差し指一本でポンポン」素人っぽく打っていたのが
ほぼ一ヶ月で、あこがれのブラインドタッチができるようになったのです・・・。


でも人によってはあえてサウスポーで打つ練習する人までもいました。
そうすると右手で同時に文字も書けて絶対に有利なのです。
実は、こういう言い方をアップすると波紋が起きるかもしれませんが
簿記論なんてある意味、「電卓の早叩き競争」なのですね。(内緒)


さて、肝心の専門学校選びなのですが、またまたここで波乱が起きます・・・。





その8  税理士試験の科目選択



税理士受験生が一番悩むのは科目選択ですね。
それは税理士試験は科目合格制度が採用されているからなのです。
弁護士試験や公認会計士試験は基本的には一度に何科目を受験するのに
対して、税理士試験は一科目づつ、ある意味自由に受験できます。
逆に、その受験しやすさが難易度を高めているともいえますが。


会計科目の2科目(簿記論、財務諸表論)と
税法科目の3科目(法人税、所得税等)をクリアしなければならないのですね。
その全部で5科目をどういう順序でクリアするかなのですが、
専門学校ではどこでも、まず会計科目を勉強することから勧めています。
それを突破してから税法科目に進みなさいと。


受験ガイダンスで皆一様にそういわれました。
ただヤル気満々の私は、全部の専門学校で聞いていました。


(吉田)「簿記論は今回受験してみて自分なりに手ごたえはあったのですが・・・」


「そうですか、でも万が一ダメかもしれないので、もう一度基本から
やっておいた方が・・・」


(吉田)「私には時間がないので次の税法科目にぜひ進みたいのです」


「でも受かっていないことには仕方がないし・・・」


あたかも今回の簿記論が不合格であるかのような口ぶりです。
このあたりはいささか閉口しました。
こちらは、まさに夢を持って脱サラしてまでこの試験に賭けているのです。


さらにその受験相談で決定的な問題が出てきます。


(吉田)「私はどうしても法人税、所得税、相続税のいわゆる国税三法を受験したいのです。」


これは真顔で言いました。すると、専門学校の講師は、


「国税三法?そんなこと夢見たいなこと言っていたら10年経っても受からないですよ。
うちの学校では、会計科目2科目とせいぜい固定資産税か酒税法あたりを勧めています。」


「酒税法? なんですか?その科目は?実務にはまったく関係ないと聞いています。
私は税理士試験に合格したいのはもちろんですが税理士としてその後も活躍したいのです。
そのためには国税くらいキチンと勉強しておかないとマズイのではないですか?」


このときのあきれたような講師の顔今でもはっきり覚えています。
20代の若い、あきらかに税理士ではなさそうな専門学校の専任講師でした。
年の若い割に高そうなダブルのスーツを着て妙に偉ぶっていました。
でもその態度に腹が立ってきて、そのうち私はその講師と熱く口論し出してしまいました・・・。


でも現役の税理士として今思うのですが、国税三法(実際には消費税も入れて四法)くらい
勉強しておいて損はないと断言できますね。
そのため2、3年遠回りしてでもいいのではないのでしょうか!




その9  科目選択の本音



本当に「夢を持って」この税理士試験にチャレンジしようとする人たちのために
この科目選択について熱く語ってみましょう。


さて税法科目は3科目受からなければならないと申し上げましたが
そのうち、「所得税法」または「法人税法」のどちらかは必修として選択しなければ
ならないのですね。(試験科目の詳細については こちら


会計事務所は法人のお客さんが基本ですから、当然ですが法人税法を
選択する人が多いようです。
税理士として法人の顧問を持つと、5年に一回くらいは法人税の調査が
必ずありますからね。
やはり法人税法を知らないと本当の意味で「飯の種」にありつかないのです。
ただ法人税法は一番ボリュームのある科目です。
これに苦労する受験生も多いのですね。


でも、所得税法を勉強しないでよいかというと、個人の確定申告は
毎年3月に必ずあります。法人のお客さんにはオーナーがいて、
そういう方々は不動産などをお持ちの場合が多くて、
確定申告は必ずと言っていいほど必要なのです。
ですから、実務についたら、やはり法人税法と所得税法は知らなければ
始まらないのです。
でも所得税法の試験のボリュームも大変な量なので、それを避ける受験生も多く、
実際に所得税法を勉強しないで税理士になった人も多いのです。
そういう先生は確定申告のシーズンは困るでしょうね。
「知ったかぶりの顔」で仕事を受けているからなのです。(内緒)


またご高齢の顧問先を持つと必ず相続のご依頼、ご相談があることも多いです。
そうなると相続税法も知らないといけない・・・。
ただ実務的には法人税法とともに消費税法も勉強すべきだとも本当に思います。


ただ今の受験生像としては、法人税法は勉強するももの、あとは消費税法と
あと残りの一科目はボリュームの軽い税法を選択してしまうイメージでしょうか。
結果的に所得税法と相続税法を勉強しないまま税理士になってしまう・・・。


それでも試験に合格すればよいのでしょうか。
どうもこの試験制度はやはりおかしいと思っております。


私は医師の国家試験制度は知りません。でもあえて喩えて言えば、
医師になるには、「内科」と「外科」と「皮膚科」の試験のうち一科目を
合格しなければならないとします。


「皮膚科」の試験科目を合格した医師が、「内科クリニック」を開業したようなものです・・・。
水虫の治療の得意な方が、風邪の処方箋を書いている・・・。


ただ医者はこのように自ら「・・科」と専門分野を特定しますが、
税理士はすべて何でもできてしまう「総合病院?」ですね。
やはりおかしいと思いませんか。
(言い過ぎかもしれませんが、この業界の向上のために反論はいつでもお受けします)




その10  大原簿記学校入学




大原


(大原簿記学校の学生証)



平成4年(1992年)9月、当時税理士受験界では有名な
水道橋の「大原簿記学校税理士本科」に入学します。
その時、31歳。バブル絶頂の証券マンから無職の学生へと逆戻り
まさに人生の再スタートでした。


入学式こそなかったものの、「学割定期」を購入して、久しぶりの学生気分を
味わうことができました。
当時、税理士の本科生は3科目を選択することができました。
1年間専念して税理士を初めて目指す人に対して、
通常「簿記論」、「財務諸表論」、「相続税法」
の三科目の選択を勧めていたと思います。


「簿記論」、「財務諸表論」は会計学の基礎として当然ですが、
なぜ「相続税法」かは、会計学の知識がいらない税法科目ということで
専門学校としては教えやすかったのでしょう。


当然私も、その三科目のセットを勧められましたが、
先日来申し上げている通り、どうしても国税三法を勉強したい私は、
天邪鬼にも、簿記論の変わりに、なんと「法人税法」を選択しました。
簿記論が万が一にも合格していたらという、「甘い期待」から
どうしても税法科目を勉強しておきたかったのです。


よって、選択科目は
「財務諸表論」、「相続税法」、「法人税法」
究極のセット科目となりました。
この三科目を同時に勉強したことのある方は多分少ないでしょう。
いや多分いないかもしれません。


もし、回りに税理士受験生や税理士の方がいらしたら聞いてみてください。
「こんな科目選択する人は信じられない!」そういうでしょうね。


でもヤル気満々の私は、絶対にその三科目を一発で合格するつもりでいました。


この科目選択は、結果的にどうであったかは、当然このブログで発表しますが、
簿記論の変わりに法人税法を選択して本当に良かったと思っています。
このおかげで私は税理士になれたとさえ思っております。
要するに専門学校の講師の言葉なんか鵜呑みにしないことですね。


ヤル気満々の私は、毎朝5時に起き、7時に専門学校の開門と同時に、
教室の一番前の指定席を、「マイ・ザブトン」を敷いて陣取っていました。


大原簿記学校で伝説となった「ザブトン人」
炎の受験生活スタートです・・・。





その11  猛勉強の日々



月、木が「財務諸表論」
火、金が「法人税法」
水、土が「相続税法」
午前中3時間の授業のあと、ひたすら専門学校の自習室に篭もり、
午後9時半の閉館までの復習の日々。
朝5時から起きて、夜の12時頃寝るまで、ご飯を食べる以外はほとんど
勉強していました。もちろん行き帰りの電車の中も。
日曜日も当然ですが早朝から専門学校に。


あれほど勉強した日々はないですね。
よく思うのですが、高校時代にあれだけ真剣に勉強していたら
東大くらい楽に受かっていたと・・・?


でも不思議と授業がものすごく面白かった。
というのも、20年前の専門学校には、いわゆる「名物講師」がたくさんいたからです。
立て板に水が流れるごとく名調子。本当に授業聞いていて飽きないのです。
それでいて生徒をヤル気にさせる。


専門学校もそれをある程度売りにしているので、今と違って自由にやらせていました。
今ではビデオやWeb授業が主体となっているらしく、完全マニュアル授業で
そんな名物授業や名物講師はなくなってしまったらしいですが・・・。


特に「相続税法」の授業が本当に面白かった。
バブル時代、相続税が払えなくなる「相続破産」までよく言われた
時代です。
バブル絶頂の証券会社で、自ら「相続対策商品」を企画立案していた
ものとして、非常に新鮮でした。


「実は相続税はそうなのか・・・」
いかに自分の無知を知らされたようで、
こんな相続そのもの知らないものが粋がって、「対策商品」を考えていたとは
正直恥ずかしくなるくらい・・・。


でも相続税とは、人の死亡が前提ですよね。
毎回授業で、「このAさんが死亡した場合の相続税は・・・・」
そればかりですからね。
毎回、「火曜サスペンス劇場」をみているようなものです。
必ず死人がでてくる。しかも前妻の子や愛人まで登場して。
だから、本当に楽しくて仕方がなかった。
こんな学問は外にないですね。


それと相続税を勉強する第一段階として、「民法」を勉強するのですね。
これは、民法により、相続人や相続分を特定するなど
まさに「基本のキ」です。
かなり突っ込んだ内容で徹底的に勉強したのですが、
これは税理士となった今でも本当に役に立っています。
20年経った今でも忘れていません。
それだけでも相続税法を選択して良かったと心から思います・・・。


(萬田久子さんのような「前妻の子、愛人の子が登場する」相続は
実際に結構あるのですから・・・)




その12  税理士予備軍の生態系



20年前の税理士の専門学校の様子はどうであったか。
面白いのでご紹介しましょう。


税理士の専門学校はお金さえ出せば誰でも入学できますね。
入学試験もないのですから。
医者や弁護士になるには、医学部や法学部に進学する必要がありますが、
税理士は、別に商学部に入らなくて良い訳です。そういう意味で、
当時、専門学校には様々な「人種」が生息していました。


区分けすると4区分くらいに分けられました。
(これは私の独断と偏見の『内緒話』です)


第1種 「お気軽学生さん派」
第2種 「ゆるゆる専念派」
第3種 「有閑マダム派」
第4種 「脱サラおじさん派」


第1種 「お気軽学生さん派」は、これは今もいると思いますが、
いわゆる「ダブル・スクール」ですね。現在は就職が厳しいので、
学校とは別に専門学校に通う学生が多いみたいですね。


当時も確かにいましたが、学生生活も謳歌した上で、
結構のんびりしていました。
在学中に5科目すべて取ってしまうような元気のある学生さんは
見たことはなかったですね。
ほとんどが中途半端に終わって、最後は就職活動で消えて
行ったような気がします。


第2種 「ゆるゆる専念派」 は「お気軽学生さん派」から進化した人が
多くいたような気がします。
簿記、財表あたり受かっていて、そのまま就職せず専念してでも
税理士を目指すような人たちです。


ただ、それほど真剣にはやっていなくて、定例試験(月に一回の模擬試験)のあとの
飲み会を仕切っていたりするような、ゆるゆるの人が多かったと思います。
あまり大きな声ではいえませんが、税理士の二世も多かったですね。
3年くらい平気で働かずに勉強ばかりしているのです。
当時はバブル直後でしたので、ブランド物のバックなんか持っているのは
たいていは2世税理士でした・・・。(内緒)


第3種 「有閑マダム派」も当時多かったですね。
バブル景気の余韻から、パートに出る必要がない暇そうな「有閑マダム」が
多かったですね。
結構国立大学出ているような人も多く、知的雰囲気を楽しんでいたような気が
します。
こういう方々は税理士になりたい訳でもなさそうで、昼休みになると友達達と
弁当を広げながら平気で2時間くらい世間話をしている。
でも、そのヤル気のなさから、たいていは春先くらいで
いなくなってしまいましたね。


第4種 「脱サラおじさん派」はこれは少数派でした。
私もこの派閥に属していたのですけど、正直なかなか馴染めなかった。
私のように「何が何でも受かってやるぞ!」というようは「ぎらぎらした人」も
いましたが、
何となく会社を辞めたような方が、何となく簿記学校に来ている感じで・・・。


「なんだか変なところに入ってしまったな。」
というのが正直なところです。


でもこういう人種の中から、運よく受かって今税理士として活躍している人も
いるのも事実です・・・。




その13  ホップ ステップ ハイジャンプ!



入学して4ヶ月くらいは本当にあっという間でした。
税理士の専門学校は、当時


基礎期 9月から12月の4ヶ月
錬成期 1月から 4月の4ヶ月
直前期 5月から 7月の3ヶ月 


3クールに分けられていました。
基礎期は名前の通り、徹底的に基礎を叩き込まれます。
そういう意味であまりキツクはないのです。
何となく終わってしまったというのが実感でした。
でも、本当の厳しさは年明けの1月以降なのですね。


12月末にまず最初の関門、簿記論の合格発表がありました。
このときまでに、正直覚悟はしていました。
2ヶ月くらい真面目に勉強しても
簡単に受かるような試験ではないことは
専門学校に通い出して分かっていました。
不合格の通知を受け取って、講師に相談すると、
「やはり簿記論、財務諸表論は基本だから、今年はそれを中心にしたら」
そう言われてしまいました。


講師の目から見たら、「財務諸表論」、「法人税法」、「相続税法」なんて
無理な科目を選択している生徒は信じられなかったのでしょう。
でもこのときの私はまた講師の助言を無視しました。


このときは、税法を勉強しているのが楽しかった。
自分の進むべき道を発見した喜びというのでしょうか。
わざわざ脱サラしてまで飛び込んだ世界でしたが、
どうやらその水は私に合っているようでした。


簿記論の不合格に落胆している間もなく、1月からまた猛勉強の日々が
スタートしました。
でも、税理士試験の本当のキツサは、5月からの直前期なのですね。
三段跳びの「ホップ ステップ ジャンプ」がありますね。
最後の直前期はまさに、「ハイジャンプ」なのです。


この厳しい一年を通じて、税理士試験のなんたるかを身をもって学びました。
この3科目を勉強しきったことである意味自信にもなったのです。


でも何度もいいますが、毎日夢ばかり見ていた楽しかった日々です。


自分の夢をかなえるのが『税』だと発見したからなのです・・・。




その14  脱サラの『強烈な』洗礼



税理士受験生としての2回目の夏が終わりました。
初日の財表の理論の山が大ハズレのショックが響いて
法人税と相続税を受けても、正直あまり手ごたえは
感じられませんでした。


「税理士試験というのはこんな難しいのか」
正直そう思いましたが、1年ほどの間で強烈に4科目を勉強し、
もしあと1年くらい時間があれば目処が立つのではないかという
「甘い、うぬぼれにも近い」自信は持っていました。


しかし、ここで方針転換を余儀なくさせられました。
当初、2年くらいは働かないで受験勉強に専念しようかと
思ってはいましたが、やはり働くことを決意したのですね。


2年くらい働かないで生活できるくらい蓄えはあったつもりですが
貯金を切りくずしているだけの生活はやはりきついものです。


それと働かないで勉強だけしている生活は、それはそれで楽しかったのですが
やはり二人の子を持つ「一家の大黒柱」としての責任もあります。


働かず勉強だけしているという「ゆるゆる」の生活、
それと、アップしたようにこれも「ゆるゆる」の専門学校の世界。
このまま何年もここにいたら、「時差ぼけ」してしまうような
恐怖感さえありました。
「一日でも早く社会復帰したい。」
いつしかそう考えるようになっていました。


何より、家族のこの一言が決心させました。


「来年上の子が小学校だけど、PTAの会合で父親の職業聞かれたら
何ていうの?」


もう言葉をなくしました・・・。


「働きながら税理士を目指そう。」
大幅な路線変更です。


「あれだけ証券会社でやってきたから、どこでも採用してくれるさ」
そう甘く考えていた私は、この業界からの強烈な洗礼が待ち受けていました・・・。




その15  会計業界の『強烈な』洗礼



Tシャツジーパン姿からリクルートスーツに着替え、大量の履歴書を作り、
この8月の時期に行われる、専門学校主催の就職説明会に
意気揚々と出かけてみました。


ターゲットは、当時攻勢を極めていた「バブリーな」大会計事務所。
バブルの頃、資産税対策専門と称して、都心にはたくさんありました。


「元野村證券を武器に、資産税専門の事務所なら入れてくれるだろう。」


本当にそう思っていましたし、当時はそんなことを専門的に
やってみたかったのです。


しかし、出席してみると若い人ばかりです。
そのなかで32歳の「オジサン」は完全に浮いていました・・。
しかも、若い人では3科目、4科目合格しているものも多いのです。


その数年くらい前まで野村證券で「リクルーター」として、
22、23歳の学生さんと接していたのに、その同年代の学生さん達と
一緒に面接を受けている自分が不思議でした・・・。
リクルーターとして、採用ポイントはだいたい分かっていましたし、
学生さんと接してものの5分話したら、その学生のレベルが分かるくらい
大量の学生に会っていました・・・。
今では時効?だからいいますが、リクルーター仲間で「撃墜王」と
呼ばれたくらい、多くの学生を面接で落としていました・・・。


その昔の「敵討ち」ではないでしょうが、その私が本当に「撃墜」され
続けてしまいました。


科目合格もしていない32歳のオジサンということで、面接会場で、
いきなりその場で履歴書を突っ返されたことも何度かありました・・・。


「未公開企業の株価算定は得意です・・・」


そんなことを偉そうに言っても誰も聞いてくれません。
年齢と未経験、科目合格していないところをどこもついてきました・・・。


「そんなバカな・・・」


やはり、業界の常識を知らないウブな私でした。


「32歳」、「科目合格なし」、「経理経験なし」、「扶養家族3人」


業界人ならすぐ分かるでしょう。当時はまさに、「四重苦」だったのです。


しかも、実務経験も何もない「プライド」ばかり強い
上場企業出身者なんて、会計事務所では使いにくいはずです。
それは、今ならそう思うことですが、当時は何も分からなかったのです・・・。




その16  10年ぶりの就職活動



現在大震災の影響で仕事を必死になって探している方も多いでしょう。
「復興支援」のために当時のことを赤裸々に書いてみましょう。
がんばれ!被災者!がんばれ!受験生!!

 

履歴書は20、30枚書いたでしょうか。
ということはアプローチした会計事務所の数も
50件は下らないでしょう。


しかし、所長面接までたどり着いても、
「野村證券ではいくらもらっていたの?」
必ず聞かれます。
「ウチではそんなに出せませんよ。」
それが断り文句でした。


「どうして野村證券やめてこの業界に入ろうと思うの?」
もうそこから説教まで始める先生もいました。


でも、いろいろな会計事務所を「裏側から」見られたのも
またその後ずいぶん役に立ったと思います。
「ウチの事務所ではこういう風にやっている・・・」
そんなノウハウもずいぶん聞けましたしね。
なかなかそんな経験はできないはずですから。


ある資産税の大事務所の先生との面接で、ズバリ言われました。


「キミをぜひ欲しい。でも税理士試験は難しいし、ウチの仕事は
キツイから多分税理士になれないよ。それでもいいかい?」


本当に自分の気持ちを見透かされたようでした。
仕事はしたかったけど、やはり税理士になる夢はあきらめられないですからね。


ここは丁重にお断りしました。
でも内緒ですが、その事務所はその後大発展し、
今では東京で5本の指に入る大税理士法人になりましたね。
もし入っていれば、今頃大番頭くらいにはなっていたかと・・・。


でもこのときイヤなくらい思い知らされていました。
脱サラするということは、それまでのキャリアをすべて捨てることです。
それからは、どんな大学出てようが、どんな会社勤めていたかなんて
ある意味関係ないのです。


そのとき自分に何ができるか。
その会社にどんな貢献ができるか、まさにそう感じました。
特にこの業界では、経験もそうですが、試験に受かっていなければ
何も始まらないのですね。


「まだまだ自分には力不足だ。」


そう感じた私は、とりあえずアルバイトをしながら勉強を続け
12月の発表まで待つことにしました。
ただその後、思いがけず「人生のどん底」を、味わうことなります・・・。



その17  人生のどん底




警備員

(警備会社の身分証明)




会計事務所の就職をいったんあきらめ、勉強時間を確保するため、
12月の合格発表まで警備会社で働くことにしました。


当時、大原簿記学校にT先生という所得税法の名物講師がいました。
その先生の講義をどうしても受けたかったのです。


週4日だけ働き、残りの3日間はその先生の講義を受ける
かなりハードな毎日になりました。


T先生はさすが、カリスマ講師といわれただけのことがあります。
その先生に税法の考え方から教わったと思います。


「これが税法の世界か・・・」


ますます税金の勉強が好きになっていくのが自分でも分かりました。
20年近く経った今でも、税法解釈で迷った時は
「T先生ならどう考えるだろう?」
よく思います。


しかし、勉強することはそれで良かったのですが、一方で
働きながらの受験勉強は確かに大変でした。
それまで、ただ勉強していたら良かった天国の世界とは
180度異なりました。


警備会社での仕事とは、大型スーパーの駐車場の交通誘導でした。
工事現場でよく見るアレですね。
でも一日中立ちっぱなしのため、夜は疲れて何もできず、
なかなか勉強が進まず悩みました。


それで、税法の理論のカードを縮小して胸ポケットに入れ、
警備の仕事中にも勉強することにしました。


ただ警備の仕事の何が辛いかというと、雨でもカッパを着て、
立って仕事しなければならないのです。
大雨の日よく思いました。


「これで合格していなければただの警備員か・・・」


心が折れそうな時でした。
バブリーな証券マンから税理士へと夢をかなえるための脱サラでした。
でもそこに、合格もしていない、ただの警備員となった自分がいました・・・。


その時、空調の効いた自習室でぬくぬく勉強しているライバル達の顔が
浮かびました。


「負けたくない・・・」


大雨の日に、ずぶぬれになりながら理論を覚えた経験がある受験生は
あまりいないでしょう。
人通りもまばらな広い駐車場で、大声を出して理論を暗記している受験生が
そこにいました・・・。


「絶対に受かってやる!」


その願いが信念に変わった時でした・・・。




その18  ついに合格発表


あっという間に12月になっていました。
月末に国税庁から「お手紙」が来ました。


なんと!「法人税法合格」でした・・・。
気持ち的には、相続税法と財務諸表論も合格していて欲しかったのですが
これはこれで、試験の手ごたえから覚悟はできていました。


結果的に簿記論を捨て、法人税法に変えて正解だったのです。
今思えば、ここで合格科目、しかも最難関の法人税法を一回で受かったので
税理士になれたかなと思っています。
一年専念して勉強して、もし結果がでていなかったら,
ショックが大きすぎてどうなっていたか。
脱サラして崖から突き落とされたところ、なんとかしがみついて
奈落のそこに落とされずにすんだような気持ちでした。


何より、
「これで会計事務所に就職できる!」
その安心感、喜びの方が大きかったかもしれません。
科目合格したことで、堂々と履歴書に書けるのです。
しかも、脱サラしての1年半で猛勉強したおかげで、
簿記論、財務諸表論だけでなく、国税三法まで勉強し
試験に必要な知識もひとおりマスターした自信もありました。


すぐ就職活動にはいりましたが、もう資産税中心になんて言ってはられません。
「もうどこでもいいから会計事務所に入ろう!」
そんな気持ちでした。


一番最初に内定をもらった事務所にすぐ決めました。
職員5人ほどの小さな事務所でした。
会計事務所に入れたことで、税理士になる夢が一歩近づいた感じがしました。


ただ脱サラのお話をしていながら、またサラリーマンに戻りましたね。
読んでいる方から、その点突っ込まれるかもしれません。
そのとき、どうしてそれほどまで喜んだか、この「税理士法」という法律を
解説しておかなければなりませんね。


実は、税理士になるには、「経理の実務経験が2年以上」必要なのです。


だから、最低2年間は、どこかの会計事務所などで経理実務に
従事しなければならないのです。
でもこの法律はおかしいと思いませんか。
私のように30過ぎて違う業界から、この道に入ろうとした人には、
強烈に不利なのです。
経理実務を学びたいのに、その経験がないからといって
その夏に50社も落とされたのはアップしたとおりです。


ということは、試験に仮に合格していても税理士になれないのです。
警備員を続けながら試験を受ける作戦もあったかもしれません。
でもそれでは税理士になれないのです。


よく警備員をやりながら司法試験を受ける人もいますね。
そういう人は合格しても弁護士になれるのです。
でも税理士の世界は違うのです。


もっと多くの経験を積んだ方々にこの税理士業界に入っていただいても
いいと思うのです。
例えば銀行や保険会社、また不動産会社にいらした方がその経験を生かして
税理士になる道があってもいいのではないでしょうか。


この点は国税庁長官に私は「不服申し立て」をしたいと常に思っています・・・。




その19  人生の再スタート



平成6年(1994年)2月。33歳の新人会計事務所職員として
再スタートを切りました。


回りの職員は20代の高卒の若い女性ばかり。
一回りも違う20歳くらいの女性もいて、オジサンは
もう完全に浮いていました・・・。


大企業から転職した者として、会計事務所という世界が
正直異様に思えました。
そこには、男女差別も年功序列もない平等の世界。


分かりやすく言えば、「職人の世界」なのです。
寿司屋の板前の修業をしたとしますね。
まさに新人職人が目の当たりにするような世界でした・・。


どうして職人かというと、皆若いながら、決算書まで作成し、
きちんと申告書まで作っているのです。
しかも、特に税理士試験の勉強をしてのでもないのに、
本当にできてしまうのです。
これには驚きました。


税理士試験勉強で頭が固くなっていた自分にとって非常に新鮮でした。
「これが会計事務所か・・・」


種明かしすると、当時どこの会計事務所でも採用していた
「オフコン」の力なのですね。
一式1000万円もするような高額の機械を導入し、
どこの事務所でも「コンピューター会計」を看板に掲げていました。
あの頃はまだまだコンピューターの黎明期でしたから。
しかし高いだけのことはあります。
その文明の利器を皆見事使いこなして、申告書まで作り上げていました。


また、33歳の新人が仕訳伝票100枚を30分もかけ苦労して入力していると
同僚達は、そんな伝票など10分もかけずあっという間に入力してしまいます。
電卓は簿記論で訓練したつもりでしたが、その数倍の速さで打っているのです。
まさに職人のワザがそこにありました・・・。


確かに税理士試験という専門知識はどこかで必要なはずです。
でもその以前での技術がまず必要なのですね・・・。


レストランの新米職人が、修行としてじゃがいもの皮むきばかりさせられる。
また、トンカツ屋に修行に入った新人がキャベツばかり切らされる。
そんなお話を聞いたことがありますか。


それに近いことが現実にすぐ起こりました。
2月に入った私はすぐ確定申告の準備をさせられました・・・。
ある日、ダンボールがどんと机の前に運ばれました。
そこにはあるラーメン屋さんの確定申告の資料が入っていました。
資料といっても一年分の領収書、納品書、請求書です。
しかも、ところどころラーメンの汁やラー油のしみまでにじんだ
ぐしゃぐしゃの領収書でした・・・。


その領収書を一枚一枚伸ばしながら、深夜まで格闘している自分がいました。


「こんな仕事は大卒の男がやる仕事か・・・」


税理士試験で勉強していた会計原則とはまったく関係のない
現実の経理がそこにありました。


あの惨めな気持ち忘れられませんが、
厳しい「職人としての」修行がその日からスタートしたのでした・・・。




その20  徒弟制度


レストランに入社した新人が毎日じゃがいもの皮ばかりむいている。
でも料理は一切教えてくれない。
夜こっそり皿に残っている先輩の作った料理を舐めながら味を覚えていく・・・。


20年近く前の会計事務所もそんな感じでした。
毎日毎日、じゃがいもではないですが、伝票入力ばかり。
ちょうど入社したのが2月という繁忙期だったせいか、
誰も何も教えてくれません。
大企業なら研修制度があって、インストラクターがついて・・・
となるのでしょうけど、まさに零細会計事務所なんて
そんな余裕もありません。


2、3日すると黒いカバンを渡されました。
「月次に行ってこい」という命令です。
カバンの中に領収書が入っていて、要するに月次をしながら集金も
して来いということなのです。


「月次とは何をやるのですか?」
何も知らない新人は正直に聞きました。
大原簿記学校では月次決算なんておしえてくれません。


「そんなことは自分で考えろ!」


多少頭にきましたが、そこで開き直って顧問先を回りました。


「今までの担当者は月次では何をやっていいたのですか?」


これも正直にすべての顧問先に聞いて回りました。
頼りない担当者だと思われたでしょうけど、
向こうも正直に聞いてくる担当者に
好感を持ってくれたのでしょうか。
今までの不満や疑問までもすべて言ってくれました。


所内に戻ってもそんな調子で聞きまくっていました。
教えてくれないのなら、こちらから聞くまでです。
皿を舐めて味を覚えろ!というのなら先輩に「味を」教えてもらうまでです。


机が隣の「二十歳の先輩」にところ構わず聞いていました。
税務知識では負けないのですが、所内の機械操作は分からないと
仕事になりません。
また、税務会計以外でも、社会保険や登記実務など
知らなければならないことはいくらでもあったのです。


ただその聞き方も、所内の古参の女性に聞こえるように、
大きな声で聞くのです。
そうすると、「それはこうなのよ」よく助け舟も出してくれました。


でもあるとき、二十歳の先輩に、こんなことを聞いてしまいました。
「ノートクって何?」


ノートクとは「源泉税の納期の特例」のことです。
会計事務所ではまさにそんなことは「あたり前田のクラッカー!」
(すいません。かなり古いギャグ!)


でも大原簿記学校に何年通っていてもそんな実務的なことは
教えてはくれません。


「そんなことも知らないの?」あのあきれた顔は忘れられません。


税理士先生となってしまったら聞けないことはたくさんでできてしまうのです。
学ぶ姿勢があれば、知らないことを羞じてはいけないと思うのです・・・。




その21  経理という仕事



現在税理士という専門職についていながら、最初は、経理については
素人同然であったことを正直に書いてみました。
営業職からの転職ですから当然といえば当然ですね。


これは持論なのですが、
料理学校を出たばかりの見習い料理人が、すぐ料理はできないと同じように
簿記学校を出たばかりの見習い「経理人」がすぐ経理はできないのです。


現場に出てすぐ実感しましたが、税理士試験の簿記論や簿記検定試験の勉強は
実際には実務にはあまり役に立たないものです。
三割くらいは必要なことかもしれませんが、あとは実務とは関係のない、
まさに「学問」だからなのですね。


でも最初は「素人同然」であったおかげで、良かったことも多いのです。
つまり、経理を始め出した人達が、
「何が分からなくて、どんなことを知ったら経理ができるようになるか」
それが、よく分かるようになったのです。


当時は、「経理って何だろう?」本当に悩みました。
簿記を勉強することが経理ではないのです。
それが知りたくて、経理の初歩的な本を買いあさってもみたのです。


でもどれを見ても訳が分からないのですね。
税理士の書いた経理の本なんて、
簿記の学問的な知識をひけらかすような、あまり意味がないものが多いです。
知識が必要ではなくて実務的にどうしたらよいかということが大事なのです。


私がかつて書いた「超簡単経理」の本がどうして好評だったのか
お分かりになりますか?


経理の初心者の人が、分からないであろうと思う点、
必ずつまずく点を分かりやすく書いたからです。
そこに「貸方、借方」なんて専門用語は一切書かなかったのですね。
だからウケタのです。


我々会計事務所が、日頃相手にする中小企業は、
決して経理のプロではないのですね。
それどころか、経理の初心者が多いのです。


そういう人達に、どうやってやさしく教えたらよいか、それを考えることは
まさに大事なのです。


当時の会計事務所では、ウィンドウズ発売前で、「手書き全盛」の頃です。
それを毎月、手書きで現金出納帳、預金出納帳をつけさせた上で
さらに伝票起票までさせていました。
経理の素人の方に対して、伝票起票なんてやはりできなくて当然なのですね。
難しい複式簿記を強制すること自体やはり無理なのです。


できないのに無理に強制して、しかも「月次監査」とかもっともらしい理由で
わざわざ毎月押しかけていって
「ほらやはりできない」
ダメだしばかりです。
そんなことは大変失礼なお話だと思いませんか。


私は絶対にそんなことはさせません。
自分の経験から、経理の素人の方の気持ちが誰よりも分かるからです・・・。




その22  徒弟制度のワナ



受験生の方にとって、肝心の税理士試験の勉強はどうなったかを
知りたいでしょうね。これも正直に書いてみましょう。


当初入社するにあたって、
「税理士試験の勉強は続けたいので協力して欲しい」
そんな要望を出していたと思います。
どこの会計事務所も、
「もちろん。受験生を応援しています」と言っていましたが・・・。
(この言葉には気をつけなければいけませんね)


1月以降、また振り出しに戻り、簿記論、財務諸表論の勉強を
続けていました。
しかし、働き出すと、もういきなり毎日残業の連続で
簿記学校にもまったく通えなくなりました・・・。


毎日夜の8時、9時は当たり前で、たまには早く帰ろうとすると
7時過ぎくらいなると夜食が出てきます。
これを食べると本当に帰りにくい。


同僚達も普通に残業しているので、新人職員としても仕事を
教わっている手前、やはり一緒に残業せざるをえない・・・。
個人の確定申告などは、当時は今と違ってエクセルもなく、
手作業が基本でしたから本当に手間と時間がかかって仕方がない・・・。
土曜日は休みとは聞いていたのですが、これも残った仕事を
片付けるのに当然出勤です。
因みにそこの会計事務所は残業代も休日出勤手当てもなし、
まさに徒弟制度・・・。


ようやく激務の確定申告の時期が終わると、今度は3月決算に入りました。
そこで手渡されたのが、その事務所一番手間がかかるやっかいな会社。
会社名義で広大な土地を持ち、ビル数棟、しかもそこでいくつか事業も
行っていて、おまけに有価証券売買も大量に行っている・・・。
事務所としては、上得意のお客さんだったと思いますが、
新人経理マンにとってはかなりのボリュームでした。
やってもやって終わらないので、土曜日どころか、日曜日にも出勤。


その後税理士となった今でも、こんなヘビーな決算はしたことがなかったと
思いますね。


日曜日に誰もいない事務所で、ひたすらパソコンと向き合いました。
泣きそうな思いで決算に取り組みましたが、もちろん、誰も教えてくれません。


「先輩の皿を舐めて味を覚えた」新人料理人がいるとしたら、
私は「先輩の作った過去の決算書を舐めて」決算を覚えました・・・。


ようやく6月になって一段落つき、慌てて税理士試験の願書を提出しましたが、
その年の夏、ほとんど勉強ができなかった私はあえなく撃沈してしまいました・・・。



その23  会計事務所の仕事

 
あまりなまめかしいお話を書きすぎましたかね?
これから夢を持ってこの業界に入っていただきたい方には
ちょっとキツすぎましたか?


でも大丈夫です。もう20年近く前にもなるお話です。
もうそんな徒弟制度を前提とした「暗黒の?」時代ではなくなりました。
あれからウィンドウズが発売され、コンピュータが急速に普及しましたね。
そのため、そんな大昔の手書き経理なんて時代遅れに
なってしまったのです。
コンピュータの普及のおかげで我々業界も劇的に改善されました。
もうそんな激務の会計事務所は減ったと思いますね。


しかも今時、そんなに職員を残業代も払わずにこき使ったら
本当に訴えられてしまうのです。
内緒ですが、「残業代不払い訴訟」がこの業界で結構あったのですね。


因みに私が職員を採用してから一度も残業をさせたこともありません。
(ちょっと自慢?)


まあ業界の裏話はこれくらいにして、この会計事務所のすばらしい仕事を
ご紹介しましょう。


この業界に飛び込んで、何が良かったかというと、
「信頼を前提とした」商売がいかにすばらしいかということです。


それまで証券マンとして営業をやっていました。
相手に喜ばれることはあったかもしれませんが、10のうち1あるかないかです。
その残りの9は怒られてばかりいました。
証券営業は儲けさせなければ信頼は得られないからなのですね。


また、営業をやった経験のある方は分かりますよね。
相手にペコペコしなければならない。営業ですからね。
会計事務所というのは営業ではありません。
何かを買ってもらう訳でもなく、相手に喜んでもらうような
サービスをするだけです。
喜ばれて感謝され、実に遣り甲斐のある仕事なのです。


毎月お客さんに伺うとき、本当に楽しかった。
それまで証券マンとして何千、何万社の社長さんと接してきた訳です。
相手の懐に飛び込むのは得意なのですね。
でもそれ以上に、自分の息子のように可愛がってくれる社長さんも
多かったですね。


また、証券マンというのは、お客さんのことがどれくらい分かっているか
というと、会計的には、会社の流動資産のうちの有価証券のところしか
分からないですよね。
銀行の営業マンだって、会社の負債の部と預金の一部しか分かりません。
でも会計事務所というのは、お客さんの貸借対照表どころか
すべての財務内容が分かっているのです。
それどころか極端なお話、社長さんが夕べどこへ行って何を食べたか
さえ知っています。
そういうことをすべて知っている上でいろいろアドバイスできるのです。
これほど信頼される職業はないですよね。


「この仕事は自分にとって天職だ!」


本当にそう思いました。
でもその信頼は税理士という国家資格が前提になっていると思えば思うほど、
どうしてもこの資格を取りたいという夢もさらに脹らんできたのです・・・。




その24  炎の受験生の復活



脱サラして早くも2年半の歳月が流れていました。
「大丈夫。2年で必ず受かるから・・・」
そう家族を説得したつもりですが、結果的にはまだ法人税法しか
受かっていません。


試験の登竜門である簿記論、財務諸表論に苦しめられていました。
特に簿記論です。
正直なお話としてかなりマニアックな科目です。試験のための学問というか。
税理士となった今でも絶対にお目にかからない項目がたくさんありました。
割賦販売、社債の償還・・などなど、まさに試験チックな難問を大量に
しかも高速で解く訓練を繰り返さないと、なかなか合格できないのです。


10代や20代の若い受験生なら、すんなり受けいれやすい分野でしょう。
でもなかなか、「高齢の?」受験生にとってはやっかいな試験科目なのです。
最後に簿記論が残ってどうしても合格できなくて、税理士になるのを
あきらめた方を何人か知っています。


その気持ちよく分かりますね。
簿記論の不合格の通知をもらうと
「またコレを勉強するのか・・・」
そんな絶望感に苦しめられますから・・・。


確かに挫折しそうになりましたが、やはり夢はあきらめたら絶対にかないません。
「税理士になるために脱サラしたのだ・・・」
もう一度、あの脱サラした頃の情熱を思い返していました。


そこで取った作戦は、専門学校の講師なら絶対に反対しそうなことです。
それは、あえて試験科目を追加することにしたのです。
つまり、三科目一気に合格して巻き返しを図る作戦(暴挙?)にでました。


国税三法はそれまで勉強していましたが、あえて国税四法目の「消費税法」を
勉強することにしたのです。
実は、そのころこの業界では消費税を巡るトラブルが多発していました。
消費税は平成元年導入された新税です。
まだまだ不慣れな会計事務所側がその処理を誤ったことにより、
お客さんから訴えられる事件が頻発していたのです。


「これはやはり消費税法も勉強しなければならない・・」


もちろん、税理士試験は税法は3科目だけ合格すればよいのですが
税理士としてやっていくには、消費税の知識は絶対必要だと思ったのです。
これは税理士となった今やっていてよかったと本当に思っています。


普通働きながら三科目をチャレンジする受験生はいないでしょう。
でもそんな無茶な受験生は本当に実在したのです。
さあ!大原簿記学校伝説の「炎の受験生」の復活です・・・。




その25  何が何でも学校へ



当時の税理士受験校は通学クラスが主体でした。
今はDVDやWeb授業があるらしいので、様相がかなり違うとは思いますが
とにかく学校へ通っていなければ受かるはずがないと
痛感していました。


そのためには、何より仕事を時間内に終えて、残業をしないように
しなければなりません。
あまりお金のことをいいたくないのですが、そこの会計事務所は
男女差別や年功序列がないといいましたが、待遇もまさに平等でした。
ということは、残業代もない代わりにまさに歩合給。
決算をこなさなければ、手当てがまったく出ない仕組みでした。


そのため、どうやって時間内に終えて決算を効率よく終わらせるか
必死になって考えました。
当然ですが仕事に手は抜きません。


よく思うのですが、試験勉強も仕事もまさに段取りなのですね。
15時以降はアポを取らないで外出しないようにしましたし、
勤務時間内は本当に集中して仕事しました。


定時は5時30分でしたので、それからタイムカード(残業代がないのに
なぜかあった・・・)を打った瞬間に仕事のことを忘れるようにしました。


三科目を取っているので、週に何度も学校にいかなければなりません。
「今日は学校です」
はっきり公言して、積極的に帰るようにしました。


もちろん、仕事が集中した時は、7時、8時になることもありましたが、
それからでも学校の自習室で勉強するようにしました。
実は、仕事場から家と学校は反対方向なのですが、あえてわざわざ学校に
毎日通いました。


8時過ぎてからも重い足を引きずりながら、学校に行くこともあり、
そこからたとえ1時間でも集中して勉強しました。


でも、よく9時頃になって、私よりもっと疲れたような顔して入室してくる
ライバルに出会うのです。


「こんな時間からでもたとえ30分でも勉強して帰るのか・・・
負けられない・・・もっと頑張ろう!」


実はそんな緊張感を味わいたいからこそ、
毎日必死になって学校に通っていました・・・。




その26  税理士試験合格法!



どうやったら確実に合格できるか?必死になって考えました。
先日ご紹介した弊著「税理士試験こうすれば合格する!」に
すべて書いたつもりですが、今日は著作権に触れない程度に?書いてみましょう。
このとおりにやれば必ず合格します!


1 最前列プレッシャー法


教室でも講義を受ける際に、私は最前列しか座ったことがありません。
一番前とは講師との距離が一番近く、しかも当然さえぎるものは何もない。
つまり、一番集中して講義を受けられるのです。


後ろの受講生のプレッシャーも確かに感じますが、これが程よい緊張感にもなる。
また前に座る受講生は、ヤル気のある人が多く、当然勉強もできる人が多いのです。
そういう意味で、よいライバルがたくさんできます。


2 ノルマ質問法


「ノルマ」なんて言葉は、元証券マンの悲しい「さが」ですかね。
一回の講義で必ず、一回は講師に質問すること。これをノルマにしました。
これは効果ありますよ。


講義を聞きながら、絶えず
「自分はどこまで分かっていて、どこが分からないか」
絶えず考える訓練になります。
ある程度分かった講義でも、
「ここは・・・ということですね。」
と確認の質問するのです。


そうすると、あいまいな内容をそこでしっかり確認できるとともに
講師側も本当はもっと話したかったことも、そこでまた聞けるのです。
これは実にお得な作戦ですね。


それと、この作戦をやると講師と実に仲良くなれます。
税理士となった今でも、結婚式に呼ばれたり、たまに食事したりする仲まで
なっています。ありがたいものです。


3  スタンドコーヒー暗記法


税理士試験の勉強で「理論暗記」という最大の難関があります。
これは、原稿用紙にして3枚くらいの理論をまさに「丸暗記」する勉強です。
科目によって違いますが、その理論の数が、30から60問。
これに苦しむ受験生は多いのですね。


受験に専念していた頃は、古典的な「山手線暗記法」を実践していました。
山手線一周は一時間かかるのですが、その一周の間に、理論一問暗記していました。


でも、働き出すとそんな時間取れません。
時間がなければ作ればよいのです。
スタンドコーヒーとは、ドトールとかスタバとかどこにでもありますね。
職場は9時からでしたので、朝8時に隣にあるスタンドコーヒーに行って
1時間理論暗記していました。


昼も弁当を5分で食べ、あとの残りの55分もまたスタンドコーヒーです。
働き出して、すべてここで理論は暗記したと思います。


理論暗記は確かに苦しいものです。
でも苦しんだおかげで、税法の考え方が身体に染み込んだ気がしています。
税理士となった今本当にそう思いますし、それが実際かなり役立っています。


受験生の皆様。そう思って頑張ってください。




その27  4倍法



税理士試験の特徴は、ある程度のレベル以上なら全員合格するというのではなく
「相対評価」であるということがいえます。
相対評価ということは、まさに敵はまわりの受験生です。
それに勝たないと合格できないということです。


もっと厳しい例えをいうと、税理士試験は10人で1個のイスを取り合う
「イス取りゲ−ム」をやっているようなものです。
残りの9人を蹴落とさなければ勝ち残ることはできない「し烈な戦い」です。
そのためには


「人の2倍や3倍ではなく、4倍やってください。」


実はこの大事なことを教えてくれた恩人が私にはいました。



専門学校で受験に専念していたころ、Oさんという有名な人がいました。
現在では、都心のある税理士法人で資産税の権威として大活躍されている友人です。


その方は、受講するどの科目も必ず満点でトップを取り、あっという間に
国税四法を含む6科目(!)取って官報合格してしまった
まさに"税理士試験の鉄人"のような方でした。


その鉄人がどうやってそんなすばらしい成績を修めるのか、誰もが不思議に思い、
当時私もどうにかその秘密を知りたいと思っていました。


ほんの顔見知り程度でしたが、本試験直後にその鉄人に声をかけ、
強引に誘うことに成功しました。
焼酎のボトルを3本空けたところで(鉄人は酒も強かった!)、
私は思い切って切り出しました。


「Oさんどうしていつもそんなにすばらしい成績を取れるのです?」


その時私は、税理士の家庭教師を雇っているとか、果ては秘密の睡眠学習を
しているくらいの答えを期待していました。
しかし、鉄人の答えは恐ろしいくらいまともなものでした。


「みなさんは勉強のやり方が甘いと思う。人の倍やるくらいは普通で、
人の上をゆこうと思うのなら3倍、4倍やって当たり前ではないでしょうか。
私もたとえ満点取った問題でも自分が納得いかなければ、
何度でも繰り返し解き直しています」


ほろ酔い加減が一変に醒めたのを覚えてます。


誰もが受かろうと思って必死になってやっている試験勉強です。
しかもその勉強もほとんどが同じように専門学校に通い、
同じようなテキストでマニュアル化された授業を受けている訳です。
普通の人と同じことをやっていては勝つ訳ない。


その大事なことを彼から教わりました。
その日から私は人の4倍やろうと決心し、合格するまで実践しました。


「4倍法」。これは自分にとって、今や一つの「人生訓」にもなっています・・・。




その28  ついに・・



確かに働きながら3科目を勉強することは無謀だったのでしょう。
でも、苦しかったけどまさに毎日夢ばかり見ていました。


「三科目同時に受かったら・・・」
「大原簿記学校伝説の人となろう!」


自分の夢のために努力することは決して苦ではないのですね。
しかし、本当に5月過ぎた頃から急に体力的に苦しくなり出しました。
試験直前の難しい講義についてくのにアップアップです。


マラソンに喩えると、
「35キロ過ぎて足が痛くなってガス欠になってきた状態」?
例のヘビーな3月決算もキツカッタ。
それが終わるとさらに7月申告にも苦しめられました。
結局申告が修了したのが税理士試験の前日。


ただ今思えば、本当に仕事もした充実した一年でもあったのですね。
働きながら3科目の勉強は確かにできたのです。


その年の結果は・・・
「簿記論、財務諸表論合格!」でした・・・。
残念ながら消費税はダメでしたが、やはり後半かなりバテタのが
敗因だったのでしょう。


でもこれで簿記、財表、法人税法の必須科目の合格。
ホッとしたのも事実でした。


合格発表の翌日、自分の背丈ほど積まれた過去の簿記、財表のテキストや
プリント類をマンションのゴミ置場に、「思いっきり」ブン投げました。
「これでもう簿記、財表は勉強しなくていいのだ・・・」
その爽快感は一生忘れられませんね。


数年間苦しめられた科目をクリアしたことで税理士になる夢に
一歩も二歩も近づいた実感がありました。


しかし、税理士試験はそう甘くないのですね。
またここで「落とし穴」が待ち受けていました・・・。




その29  番頭としての修行



会計事務所に入って3年目。仕事の要領も覚えてきました。
実際に思ったのですが、入社1年目で3時間かかった仕事が
2年目で、2時間に。3年目で1時間でできるようになってくるのです。
仕事の段取り、知識、機械の慣れからでしょうか。
まさに「職人」としての腕が年々上がってくるのを実感していました。


入社当時、あれほど社内で聞きまくっていた新人が、
こんどは教える側に回っていました。
社内の案件がほとんどもちこまれ、質問を受けたりチェックをしたり。


ある程度大きな会計事務所で必ずいる、いわゆる「番頭さん」みたいな仕事
なのですね。


そういう大きな事務所の所長は、自身では申告書なんかチェックなんかして
いないのです。(内緒)
職員やこういう番頭さんに「お任せ」なんですね。
ということは、税理士先生は、日中は仕事はあまりしないで、
税理士会の会合に出たり、ゴルフばかり。
この時期「ゴルフ焼け」している先生は、たいていそうですね。
(これも内緒ですが、真面目にやっている先生ももちろん多いです)


ただ個人的には、貴重な実務経験をしました。
やはり、いろいろな企業をみて経験していることは大事なのですね。
実際に勉強していることがまさに実務で聞かれることも多く、
非常にやりがいのある仕事ですね。この「番頭さん」は・・・。


さらに、ここで面白い仕事が飛び込んできました。
顧問先に中のある一社が急成長して、なんと売上100億円規模にもなり、
上場公開というお話がでてきたのです。


当然、上場公開のことなんてまったく知らない所長は、
私を担当させることにしました。


この仕事は面白かったですね。
「資本政策」といって、子会社、関連会社の整理統合がまずあります。
「解散」、「合併」など勉強したばかりのことがたくさんでてくる。
毎日のように会社にいって、監査法人の担当の会計士と打ち合わせ。
証券会社にいたせいもあり、
「こんな仕事をしたかったのだ・・」
喜々として取り組んでいました。


一生懸命やっている仕事ぶりから、その担当先の社長も
私のことを大変可愛がっていただきました。


ある日、その社長から食事に誘われ、こう切り出されました。


「吉田さん。税理士あきらめてウチの経理部長になりませんか?」


上場企業の経理部長への道が開かれそうなときでした。
まさに人生の岐路です・・・。




その30  人生の岐路



時代背景としては、その後上場公開ブームとなり、
ホリエモンに象徴されるようなITバブルが訪れます。


上場前の企業に入社して、自社株やストックオプションを
取得することにより「株長者」になること。
それは元証券マンとしては、望むところだったのかもしれません。
一方で急成長している企業に、経理部長として入社することは
現場の経理と上場公開の経験を積むことでは
「キャリア・アップ」という意味では、かなり有効だったのでしょう。


でも、その社長のありがたい申し出は、結局のところは
丁重にお断りしました。


「税理士になるために脱サラしたのだ!」


やはりその決意は固かったのです。
株長者になる見込みもあったでしょうけど、
そんなフロックみたいな錬金術も何となくイヤでした。


実は、その会社だけでなく、野村證券の元上司からそんなお話も
数件いただいていました。


当時は、経理実務や税金が分かって、しかも上場公開のことが
分かる若手の方は確かに貴重だったのでしょう。
そういう道に進む選択肢もあったかもしれません。
そうすれば税理士試験という苦行から開放もされましたが・・・。


経理人として、つまり職人としての腕は確かに上がっていると
思っていました。
再三、料理人に喩えていますが、料理を極めて、例えば「帝国ホテルの
シェフになること」、また「吉兆の花板(料理長のこと)になること」 、
それらは料理人として最高の勲章なのでしょう。


でも、こんな言い方すると失礼かもしれませんが、帝国ホテルのシェフでも
吉兆の花板でも、サラーリーマンはやはりサラリーマンですよね。
脱サラした以上、いつまでもサラリーマンはやっていたくなかったのです。
つまり同じ料理人でも「オーナーシェフ」になる夢を見ていました。
小さな店でもいいから、自分がオーナーとして腕を振るってみたいと
料理人ならきっと誰でも思うはずです。


しかし、そのためには国家的お済みつきのある「調理師免許」つまり
「税理士の免許」はどうしても必要だったのです。


入社3年目。貴重でしかも特殊な実務経験を多く積むことができました。
でもその代償はありました。
仕事に熱中し過ぎていたあまり、実はその肝心な税理士試験の勉強は
おろそかになっていたのです。


結局また一年を棒に振ることになってしまったのです・・・。




その31  税理士試験に対する本音



就職活動していた頃、ある資産税の大事務所の先生が言っていたことを
思い出しました。


「キミをぜひ欲しい。でも税理士試験は難しいし、ウチの仕事は
キツイから多分税理士になれないよ。それでもいいかい?」


仕事をすればするほど税理士から遠のく実感がありました。
「こういうことか・・・。」
妙に納得していました。
実は、その先生がこんなことも言っていたのです。


「仕事のできる人ほど、当然売上を伸ばすために担当を増やす。
結果的に勉強ができず合格まで年数がかかる。逆に仕事のできない人は
担当が少ないため勉強ができて早く合格しやすい。」


これは、今会計事務所の所長となった私として、真実だと実感しています。
この業界に飛び込んで長いですが、大事務所の番頭さんは、
3科目、4科目合格者が多いのです。
そういう人の仕事ぶりは、新米の税理士の3倍、4倍やっています。
経験も知識も適わないくらい・・・。
ただあと少しというところで、残念ながら税理士になるのをあきらめた人も
また多いのです。


働きながら試験を受けるのは、生半可な気持ちではダメだということなのです。
ということは、逆に今「頼りなさそうな」新米の多くの税理士が
「仕事のできない人」だとまで言いませんが・・・。


私の場合でも、自慢ではないですが、確かに仕事は人一倍やったつもりです。
3年目ながらすでに番頭さんとしての仕事までも。
またすべての担当先の過去の未収金を回収して、
さらには顧問料の値上までやってもらっていました。


先日アップしたある大会社の資本政策で、数百万単位の仕事も取ってきたし、
そういう評判を聞きつけた都市銀行からの紹介で、大口の新規顧客まで
引っ張って来るほどでした・・・。


立場的には所長から、売上を伸ばすように期待されます。
しかし、仕事に手は抜かないものの、それ以上要求されたら、
いっそのこと退職してもいいくらいの気持ちでした。
働きながら合格するにはそれなりの覚悟は必要なのでしょう。


「応援する家族のためにも頑張らなくては・・・」
不合格通知で落胆する顔を見てあらためて思いました。


その翌年、元旦から再スタートを切りました。
大原簿記学校伝説の「炎の受験生」復活です・・・。




その32  夢へのリーチ



税理士試験をクリアするにはあと2科目合格する必要がありました。
麻雀用語で言うと、イーシャンテン。
あと1科目というリーチがかけられるには、まだまだという状態ですね。
でもその頃の自分は、2科目一気に合格して夢への扉をこじ開けようと
していました。


「ヨシ!リーチ一発ツモだ!」


麻雀をやる人なら分かりますね。
リーチをかけるとワクワクドキドキしますね。
リーチは実に楽しいですからね。
2科目勉強することは確かにシンドかったかもしれませんが、
合格の夢を毎日見られることは、それはそれで楽しかったのです。


科目は、「所得税法」と「消費税法」。
前述の通り、所得税は受験生が敬遠する科目です。
でも、ボリュームが多いもののやはり実務では必修の科目ですね。
会計事務所で働きながら勉強している受験生には有利なように思います。


毎日職場に法規集を持ち込んで、常に条文を確認するようにしていました。
例えば、お客さんから「医療費控除」の質問があったら、
条文、通達などから確認した上で、答えるようにしていました。
また消費税も、国税庁監修のQ&Aを、仕事中よく読んでいましたね。


その数年前にT先生のおかげで所得税法という科目自体が
好きになっていましたし、2度目の受験ということもあり、
得意科目にもなっていたのです。
試験直前の7月に、大原簿記学校では「全国統一模試」が行われます。
ここで数千人の中でトップをとりました。(すいません。自慢話です・・・)
これは、その年の税理士試験を自信持って受けることができたのは
もちろんですが、その後税理士となってからも個人確定申告に対して
かなり自信が持てるようになりましたね・・・。


例年のごとく試験の前日まで仕事をして、さあ!いよいよ本試験です。
なでしこジャパンが、ワールドカップ決勝のピッチに立ったときのような
ワクワクどきどき感です。


「絶対に負けないぞ!受かってやる!!」


意気込んで試験会場の早稲田大学に乗り込みました・・・。




その33  大隈さんの銅像の前で



受験生の皆様にエールを送るために、
試験場での丸秘テクニックを教えましょう。

大隈重信


試験会場の早稲田大学のキャンパスには、
創立者大隈重信さんの銅像があります。


一応早稲田OBの私としても当然よく知っている銅像です。
ただ、在学中は入学式と卒業式に記念写真撮ったくらいで
正直ほとんど印象になかったのですね。


でも卒業してから、こうやって毎年試験を受けに来る度に
この銅像をながめるようになりました。


8月の暑い盛り、税理士試験は平日に行われます。
銅像の前でこう思うのです。


「また今年もこの場所に来られた。
こんな幸せな男はいない。
自分の人生を自分の意志で生きている。」


どういうことか分かりますか?
サラリーマンだったときは、会社や上司の命令で
働かされるのですね。
以前アップしたように、私は何度も社命令により転勤もしましたね。
なかなか自分の意志を貫くことはできないのですね。
それこそ税理士試験受けたくても仕事で当日来れない人さえ
いるのです。
思い通りにいかないのがサラリーマンでしたからね。


だからこそ脱サラしたともいえるかもしれません。
一度しかない自分の人生を自分の意志のとおりに
生きてゆきたいですからね。


誰も頼まれもしない税理士試験を、しかもこんなクソ暑いときに受験するとは
自分の人生を自ら切り開いていると思いませんか。


確かに試験を受けることに、緊張感もあります。
でも、それも「生きている!」と実感できるのです。


この気持ちお分かりますか?
自分の夢に対して熱く燃えている気持ち・・・。


銅像をじっと見ていると、
大隈さんの
「頑張れよ!」
と言う声が聞こえてくる気がしてくるのです。


学生時代は、何も思わず通り過ぎていた銅像だったのですが、
あの銅像の立っている意味が分かるようになったのです・・・。


試験を緊張せずに受けることができる究極のテクニックですね。
「脱サラ」受験生の方にお勧めです。





その34  ドリームズ・カム・トゥルー



「何としても合格したい!」


その誰にも負けないほどの強烈なマインドが国税庁に通じたのか、
その年一気に2科目合格でき、私の悪戦苦闘記はピリオドを打つことに
なります。


12月の合格発表の朝、まったく仕事の手につかない私は、
会計事務所をこっそり抜け出し、合格者名簿を手に入れるために
わざわざ官報販売所まで行きました。


合格発表は今ならWeb上で見られますが、当時は、郵便の合格通知を
待つか、官報で確認するしかなかったのです。


官報を買って、震える手で自分の名前を探しました・・・。
名簿に自分の名前を見つけた瞬間、まさに天にも舞い上がるような
気持ちでした。


当時は携帯電話なんか持っていなかったので、
とにかく妻に合格を伝えようと電話ボックスに走りました。
慌てた私は、試験の直前にお守りにもらった大事な
「湯島天神のテレフォンカード」で、電話していました。


Photo_36


そのとき何を話したのか、何を伝えたのか今もって
まったく思い出せません。
うれしさのあまり、一瞬記憶喪失になったかのようです。
気がついたら事務所に戻っていた感じでした・・・。


そのたった一度しか使ったことのないテレフォンカードは
今でも私の大切な宝物、お守りとして、それからいつも財布の中に
入れてあります・・・。


(炎の受験生編 おしまい)

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