その1 ヤフージャパン創業者の物語



ならずもの



ヤフージャパン創業者の井上雅博氏の物語です。

井上氏は

「日本のインターネット産業を拓いた男」

とも呼ばれるそうです。

 

「そうなの〜?」

 

と思う人がほとんどではないでしょうか。

言うまでもなく、ソフトバンク創業者の孫正義氏が米国ヤフーと

事業提携して立ち上げた日本法人ですからね。

 

事実1996年1月に日本法人ヤフージャパンの創立時の初代社長は

まぎれもなく孫正義氏なのです。

それでも、この井上氏こそが「事実上の創業者」だったということが

この本を読むとよくわかります。

 

ヤフージャパンとはまさにネットバブルの象徴のような企業でしたね。

創業から2年足らずの1997年11月に店頭公開市場の

ジャスダックに株式を公開してしまうのですね。

1年後の1999年5月には株式の時価総額がなんと1兆円を

突破してしまうのです。

さらに、翌2000年には一株あたり1億6000万円という

超高額の株価になったのです。

こんな会社は空前絶後ないでしょうね。

 

そもそもこの井上氏はソフトバンクの孫さんに

ヘッドハンティングされた方です。つまり、サラリーマンなのです。

 

この井上氏は、オーナーではないものの、おかげで総資産1000億円を

超えるネット長者になったといわれています。

 

一介のサラリーマンが、資産1000億円の巨万の富を

築き上げたのですね。

 

 

55歳になった2012年6月の株主総会を最後にヤフーから去ります。

社長在任期間が実に16年。

普通なら会長か相談役に残るのですが、きっぱり社業と縁を切ります。

その後一度も会社には出勤していないそうです。

その引き際は社内だけでなく、IT業界の謎らしいです。

 

アーリー・リタイアメントをした井上氏は、趣味の達人として

有名になります。

クラシックカーをはじめ、ワインや音楽の世界に没頭します。

しかし、引退後5年を経った2017年4月25日。

 

IT業界を震撼する悲報が届きました。

なんと自動車レースの事故で亡くなったのですね。

 

その波乱万丈の「日本のインターネットの父」

を見てみましょう・・・。



その2 日本一成功したサラリーマン


では「日本一成功したサラリーマン井上雅博氏」

を見ていきましょうか。

 

先に言いますが、ソフトバンクに転職したのは30歳の時。

「30歳でそろそろ転職でもしようか・・・」

そう思っている人には必見です。

 

井上雅博氏は1957年(昭和32年)生まれ。

私の年代の3つ上ですね。

 

くしくも孫正義氏も同年生まれなのですね。

 

東京の祖師谷団地というごく普通の一般家庭で育ちました。

高校は都立松原高校。私も都立高出身なので分かりますが、

恐縮ですが、取り立て進学校というほどでもなくごく普通の高校です。

特筆すべきは、「子供のころからパソコン作っていたようなおたく」

ではまったくなかったようです。

逆に国語が得意な文系だったらしいのですが、父親の勧めもあって

東京理科大学理学部数学科へ進みます。

 

でもここでも驚きは、大学でコンピュータや情報通信の世界に

接したわけでもないのですね。

ただ大学で熱中したのは「自動車部」。

車の解体や組み立てまでやっていたそうです。

そのあたりは「自動車おたく」だったらしいです。

 

コンピュータとの接点はアルバイト。

1970年(昭和45年)設立の「パソコンベンチャー」

だったソードという会社。

 

マイクロソフトが1975年(昭和50年)設立。

アップルが1976年(昭和51年)設立ですので。

日本製パソコンメーカーの業界の先頭を走っていたらしいです。

まさにコンピュータの黎明期ですね。

 

1979年(昭和54年)に大学卒業後そのままそのソードに

入社します。

私もその直後に大学に入学しましたが、

大学の授業でFORTRAN(フォートラン)というコンピュータ

プログラミングをやった記憶があります(ちんぷんかんぷんでしたが・・・)

 

ソードは80年代に入って、NECや富士通、日本IBMにつぐ、

国内4位のパソコンメーカーにまでなります。

しかし、大手との競争に敗れたソードは1985年(昭和60年)に

東芝の傘下に入ります。

失意の井上氏はその2年後に孫氏に誘われ、ソフトバンクに入社するのです。

その時井上氏は30歳。

 

どうして井上氏はあの孫さんから誘われたのか。

ここが重要なのですね。

井上氏は大卒後8年間、必死になってこのパソコン黎明期の時代を生きました。

しかもベンチャー企業経営者としてのあり様を学んだのですね。

ただ井上氏はご紹介した通りパソコンの技術者でもないのですね。

海外出張を繰り返し、この業界に誰よりも詳しかったのです。

しかもどこで覚えたのか英語も堪能になっていたのです。

 

このベンチャー企業での8年間の経験がヤフーを急成長させた

礎になったと間違いなく思うのです。



その3 タイムマシン経営


1987年にソフトバンク総研に入社した井上氏ですが、

最初はパソコン情報誌の編集長をやらされます。

その理由は、元勤務したソードが基本ソフト「ユニックス」のライセンスを

持っていたから。

つまり、単なる「ユニックス・ユーザー向け」のマニアックな情報誌です。

それもそのはず、ソフトバンク自体も80年代そのものはまだまだ発展途中。

このあたりもがく苦しんでいたのは、こちら

経営者本紹介を10年以上やっているといろいろつながってくるのですね・・・。

 

 

世の中が大きく変わってきたのが、1991年のマイクロソフトのOS

「ウィンドウズ3.1」。

さらに、なんといってもその後の1995年「ウィンドウズ95」でしょう。

 

この時代を読む目を、誰よりもさ孫社長はすがにもっているのですね。

「ウィンドウズ3.1」が発売された直後の1992年。

井上氏はソフトバンク本体のソフトバンクの社長室・秘書室長に移動。

 

ソフトバンク社内に「インターネット準備室」が立ち上がり、

井上氏がその陣頭指揮。

その理由に、技術面でなく語学力が買われたのもご紹介した通り。

このあたりから、「日本のインターネットの父」が誕生してくるのですね。

 

しかし、やはりここでも孫社長の経営手腕ですね。

そもそもヤフーとは、米国のスタンフォード大学在学していたジェリー・ヤン

が学生ベンチャーとして起こした会社なのですね。

わずか10人ほどの会社だったのです。

ヤフーというと「検索会社」ということは誰でも分かると思いますが、

そのころ日本では、検索どころか、インターネットそのものがまだ知られていない

時ですね。

 

マイクロソフトのおかげで時代は変わると読んだ孫氏は、

1995年になんと200万ドル(2億4000万円)を出資してしまうのです。

その契約交渉にあたったのが井上氏でした。

 

はい。ではここで「ソフトバンク研究家」としての大事な突込み。

孫社長が、この1990年代後半から2000年代に繰り返した

経営手法を何というかご存じですか?

 

「タイムマシン経営」

 

というのですね。

ちょっと古臭い言い方ですか・・・。

 

1990年代は、間違いなくアメリカはインターネット先進国でした。

日本ではまったく知られていないビジネスです。

 

この日米間のネット産業の成熟度の違いに目を付け、有力な米ベンチャーに

いち早く出資して、上場させたり、含み益を取る、もしくは日本にも同様の

事業モデルを移植したのです。

 

つまり、「タイムマシン経営」とは、

「その時差による『アービトラージ』(さや取り)で収益を上げるビジネス」

なのです。

その「アービトラージ」で日本最大、空前絶後の莫大な利益を上げた方が

この孫正義氏だったのです・・・・。




その4 1996年がインターネット元年


ではその「タイムマシン経営」。

 

1996年1月。

「今年をインターネット元年とする。」

と孫正義氏はかかげ、ヤフージャパンが設立されます。

 

yahooの開設日は1996年4月1日。

わずか3か月でアメリカのヤフーのサイト真似た日本語版を

構築したのですね。

こんな短期間でよくできたと思いますが、実際には、

回線、サーバー、アプリケーション、ネットの仕組みを

すべてに熟知している人材が絶対に必要だったのです。

たまたまアメリカの通信大手AT&Tでそんな経験をしてきた人材が

ヤフージャパンの中途採用に、応募したというのですから

本当にラッキーだったのでしょう。

 

このように井上氏の功績として、ヤフージャパンに数多くの有能な人を

採用したこととこの本で紹介されています。

いかに井上氏自身が有能でも当然一人ではできなかったでしょう。

 

ところで社名のヤフーは、ガリバー旅行記に出てくる「ヤフー」から

つけられたそうです。

粗野で型破りな「ならずもの」という意味なのだそうです。

この本のタイトルのように、井上が探し出した「ならずもの」の多くが

日本のインターネットのパイオニアになっていったのです・・・。

 

 

その「ならずもの」たちのおかげで、その年の11月4日に

店頭市場に公開します。

その時の株価が200万円!かなり話題になりました。

でもその時の会社の規模は、

1996年3月期には たった 63万6000円 だったのが

1997年3月期 4億1300万円

1998年3月期 12億6900万円

 

急成長していたのは事実ですが、まさに社員50名ほどのベンチャー企業

でしかなかったのです。

その後株価をは1億円になりその後の成長は書いた通りです・・・。

 

 

はい。ではここで一番書きたかったことを、

本邦初公開!

 

実はこの時点で私自身がヤフーとニアミスしていたのですね。

 

1998年3月に税理士としてゼロから開業した私は、

これはネタで何度も紹介したことですが、

「4月になんと売上もゼロ」・・・

 

そこで一計を案じた私は、派遣会社に面接に行ったことがあるのですね。

 

「とりあえず派遣の仕事でも何でもいいからもらおうか」

 

あの頃は必死でしたから。

ところでご存じでしょうか?

その前の年の派遣法の改正により「財務」の派遣が認められることに

なったのを私は知っていたのです。

そんなことを知っている当時の税理士は日本全国で私くらいだったでしょう。

気合を入れて、履歴書をバッチリ書き、ついでに

当時依頼された合格体験記30枚をもって勇んで派遣会社にいったのですね。

 

派遣会社の担当者が、面接で合格体験記を読み終わって、

残念そうに

 

「ちょうどあなたにあう仕事があったのですけど。

昨日ちょうど決まってしまって・・・。

店頭公開したばかりのヤフーの財務・・・」

 

その一言忘れられませんね・・・。

もし一日応募が早かったら、私の人生が変わってしまっていたかもしれませんね。

 

 

私もまだまだ若く、当時はかなりの「ならずもの」でしたからね。

きっと今頃はヤフーの財務最高責任者・・・?

持ち株がをもらって井上氏のように億万長者に・・・???



その5 なぜ退任したのか?


井上氏がヤフーの社長となってから、ソフトバンクの中核企業として

稼ぎ頭となっていきました。

ヤフーの資金力で、ソフトバンクは次から次へと企業買収を

繰り返していきます。

その買収案件第一号が、2000年8月PIM社でした。

そこの創業者である松本氏をかなり信頼していたようです。

ヤフーの次期社長にさえ考えていた記述もありましたから。

 

2001年9月から、ソフトバンクが「ヤフーBB」というインターネット事業を

開始します。

この本でよく分かったことですが、ヤフーと名前がついていますが

事業主体はソフトバンクだったのですね。

ただこのあたりから、ソフトバンクの孫さんとの蜜月の関係のひずみが生じだして

来ていたようです。

ソフトバンクの会議には井上氏は参加せず、その松本氏を行かせます。

そのことで孫さんの逆鱗に触れたお話は妙になまめかしいです。

 

それでも井上氏は、yahooのポータルサイトとしての圧倒的な地位を

確立していきます。

圧倒的な地位とは分かりますよね。

毎朝パソコン立ち上げyahooのトップページから一日が始まる人が

ほとんどではなかったでしょうか。

私自身、毎日yahooのトップ画面を見てから仕事を始め、ヤフーニュースで時事を確認する

ヘビーユーザーの一人ですから。

 

ただこれは何度も書きますが、

「タイムマシーン経営」だったのです。

つまり、まったく米国の物まねに過ぎなかったのです。

 

「無料でニュースを見ながら、不明な言葉があれば

検索エンジンを使って調べる。無料と便利さが受けて、

日本でも爆発的にユーザーを獲得していった。」だけなのです・・・。

16年間増収増益の超優良企業に育て上げたにもかかわらず、

55歳となった2012年6月井上氏はヤフーを退任します。

その退任は何故だったかを考えながら読むことにこの本の価値があります。

米国のヤフーは2008年から経営悪化で創業者ヤン氏は退任しているのに

比べたら、井上氏の経営手腕を賛辞すべきところでしょう。

 

「井上氏のモバイル事業対応の遅れが理由」

を上げるIT関係者も多いようです。

具体的には「ヤフーはスマホに乗り遅れた」ということなのでしょうか。

また一方で、

「インターネットは新聞テレビラジオの三大メデチィアに追い付く」

と目標を井上氏は掲げながらも結局はメディア企業になれなかったと

ことを挙げる人もいます。

 

「テクノロジーだったら僕でもまだやっていけるかもしれない。

けれどメディア企業としてやっていく自信がない」

 

と全社員に宣言してからヤフーを去ったという記述からも分かります。

 

でも実際のところ、

「孫氏が経営の若返りを図ろうとして首を切られた」

というのが実情ではなかったのでしょうか。

 

著者はそこはお茶お濁してハッキリ書いてありませんが、

これは以前ご紹介した本にも書いてありましたね。こちら

 

昔からドッグイヤーで進化するといわれるコンピュータ業界ですからね。

きっと55歳ではGAFAが牛耳るネット世界の急速な動きについていけないと

孫氏が判断したのでしょう。



その6 アーリーリタイアメント・・そして悲劇


書きましたように井上氏は、2012年6月、55歳の若さで退任します。

その後、推定資産1000億を使って優雅に趣味に生きます。

この本ではかなりのページを割いて、その優雅なアーリーリタイアメント生活が

描かれています。

ハワイ、フランスなど、世界中に別荘をお持ち、趣味のワインとクラシックカーに

没頭します。

 

「サラリーマンとして最も成功した日本人」

ですからね。

 

ただ冒頭書いたように、退任後わずか5年後、60歳でレース中に事故死されました。

 

「幸せな人生であったかどうか・・・」

 

これは考えさせられました。

奥さんとも離婚して、愛人もたくさんいたようで、

事故の際には30歳も年下の愛人が助手席に座っていたそうです・・・。

 

ただ亡くなった方を勝手にあれこれ書いても仕方がないので、

最後に私自身を突っ込んで終わります。

初めて公開しましたが、37歳で税理士開業した時に、

派遣社員の身分でもヤフーに行けるチャンスをつかみかけたのですね。

税理士ではなく、まったく違う世界に飛び込んでいたかもしれませんね。

それこそストックオプションをもらって億万長者になっていたかも・・・。

 

そんな夢物語を何度か思い返したこともありましたが、

その本読んでそんなことは絶対なかったと気が付きました。

 

「株式公開前に入社した社員番号60番までの人が、ストックオプションで

株を持っていました。株式の公開後に入社した社員には割り当てがありません。」

「従業員のストックオプションは草創期の42名すべてを合わせて

183株しかない。そのうち井上氏が129株。」

 

ということは、井上氏が大半所有して、公開前に入社した残り41人が

一人ずつ数株だったみたいですね。

ということは、まったくの夢物語だったのですね。

 

それと2012年に井上氏と一緒に退任した取締役最高財務責任者で

あった梶川朗氏。実はこの方は野村証券の出身だったのです。

1959年生で1983年一橋大卒。1年先輩で、海外研修でロンドン行って

本社金融法人部で働いた「私よりはるかに優秀な」エリート。

1996年11月にソフトバンク転職。1997年6月にヤフーに

移っているのですね。

ということは、仮に私が1998年にヤフーに行っても、

まったく偉くはなれなかったのかもしれませんね・・・。

 

ただ当時は売上5億円の会社。

税理士としてそれくらいの会社は、入力申告などは「朝飯前」。

すべてやってあげて、さらにいろいろなことはできたのかもしれません。

「ヤフータックス」!?

 

くらいのサイトを責任者として立ち上げていたかもしれませんね。

 

私も「ならずもの」であった30代の頃を思い返してしまいましたね。

実はまだブログに書いていないことですが、

開業直後ゴルフ場の顧問になり証券化ビジネスに

没頭したこともあります・・・・(そのお話はまたいつか)

 

一度履歴書でもヤフーに送ってみますか・・・!?

 

(がんばれ! 世界のヤフー物語 おしまい。)







 





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