その1 13年ぶりにユニクロをご紹介



ユニクロ 


何だか閉そく感の日本ですね。

こういうときこそ取り上げたい企業こそ

ユニクロですね。

実はユニクロを取り上げて早15年になりました。こちら

その後13年前も一度書いたこともありますね。こちら

 

それら昔のブログ読み返してその後のユニクロの

ことが知りたくてまたこの本を取りあげました。

 

実は13年間取り上げなかった理由が

あったのです。

いろいろと他の著者の本も読んではいましたが

どうも納得できなかったからなのですね。

「ユニクロ・ウオッチャー」

の一人として申し上げたいのですが、

世にいる「ゴーストライター」としては非常に

書きやすい題材のはずです。

柳井氏の知名度やユニクロの人気から

そこそこ売れるから書きたい人も多いからなのでしょう。

 

でも多くの本は

「柳井氏をヨイショ」

する本ばかりだったのですね。

そういう本に限って出版を認めていたからでしょうね。

忙しい柳井氏が自ら筆を執るはずはないですからね。

ですからあえて取り上げてこなかった訳です。

 

この本の著者は日経新聞の編集委員の杉本貴司氏。

まあ、日経の記者がヨイショ記事は書かないだろうと

思い購入してみました。

 

正解でした。この本は素晴らしいです。

丹念な取材をもとに中立に書いてあります。

どの本よりも人間「柳井正」が分かるような気がします。

 

それは冒頭から分かります。

 

郷里の山口県の進学校宇部高校から早稲田大学政経学部に

現役合格して進みます。

1967年18歳の春。

でも早稲田では「早大闘争」のピーク。

でも学生運動を冷めた目で見ていたノンポリ学生の柳井氏。

早大のキャンパスから遠ざかったようです。

何をやる訳でもなく、思いつくままに本を読み、

ジャズ喫茶やパチンコ店にブラブラ。

悪友と徹夜マージャン。

 

何だか私が40年以上前の早大生であった頃と

まったく一緒ですね。

 

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しかし柳井氏と徹底的に違うのは

それから55年後早稲田大学の入学式に

祝辞を述べているのですね。

早稲田大学のHPに出ています。こちら

 

私は人が生きていくうえで、
最も大切なことは「使命感を持つ」ことだと

思います。
そのためにはまず、「自分は何者なのか」、

そのことを深く考えることが必要です。

 

 

早稲田で「自分は何者なのか」

ひたすら模索していたのでしょう・・・。




その2 50年前の屈辱


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(柳井氏が継いだ宇部市の小郡商事)

 

 

入学式で祝辞を述べるほど世界的企業のオーナーに

なった柳井氏ですが、とても早稲田時代に真面目に

勉強したようにも思えないのですね。

希望した商社はことごとく不合格。

卒業後そのままプータロー生活。

コネで入ったジャスコにもわずか9ヶ月で退職。

またお気楽なニート生活。

でもこの本で知ったのですが、今の奥様と

大恋愛をしていたのですね。

大学2年生のときに行った海外旅行の際に

スペインに留学中に今の奥様と知り合ったのですね。

ここはまったく知りませんでした。

しかもこの世界一周旅行代金200万円!も親が

出していたもの。

当時の200万円ですからね。

今の1000万くらいでしょうか・・・。

まあ本当に地方のボンボンだったのですね。

しかしそんな経緯があったとは・・・。

でも、まともに生業にもついていないのに結婚を決意。

当時はとんでもないお気楽なかただったのですね。

それで仕方ないので実家に帰ったのが本当のようです。

 

山口県宇部市からユニクロが生まれたのは有名なお話。

街の中心地にある宇部中央銀天街という古びた商店街。

店の2階に住居があるような典型的な家族経営の

地方の一商店。

それが世界的な企業へと飛躍していったのですね。

「地方都市から世界企業へ」

美辞麗句を散りばめられていた「柳井神話の事実」

だったのですね。

何だか今までの「ヨイショ本」にはない記述なので

好感が持て面白かった箇所。

 

店頭に立っていたある時、

「あれ?柳井君?キミ、ここの店番しているのか?

君は東京の大学まで出て、

なんでこんなことをやっているんだ」

高校の教師に見られてこう言われたそうです。

 

宇部高校は地元では超進学校ですからね。

現役で早稲田の政経にはいって卒業して

商店街の店を継ぐ人はいないのでしょう。

 

これはきっと屈辱だったのでしょう。

だから50年以上も経っても覚えているのでしょう。

 

この当時、つまり1970年代の前半。

この宇部という場所と時代背景を理解しないと

いけないのですね。

地元の経済を支えてきた石炭産業は

夕暮れ時を迎えていたのですね。

炭鉱は次々と閉鎖され、石炭から石油への

シフトの最中でしたから。

そこから10年柳井氏はもがき続けるのですね。

「暗黒時代」

とハッキリ記述されています・・・。

こんなことまで記述している本はないですね。

なかなか参考になりますね。





その3 暗黒時代

 

この本は柳井氏がもがき続けた

「暗黒時代」

が中小企業には一番参考になりますね。

 

1984年にユニクロ第一号店を開店して

一気に成長していくのですが、

なかなかユニクロ並みに成長できる企業は

少ないというかまずないですからね。

 

多くの中小企業は開業して10年は

まさに「暗黒時代」だからです。

キビシイいい方しますが、その10年すら

持ちこたえられなかったりします。

26年税理士やっていていろいろな

起業開業をみてきましたから・・・。

 

柳井氏がこの暗黒時代をどうやって抜け出したかは

前の本にも書いてあったことですね。

柳井氏は類まれな読書家だったのですね。

松下幸之助とドラッガーに心酔して、すべての書物を

読んでいたと知っていました。

 

「本を通じて偉人立ちとの対話」

から多くのこと学ぶのですね。

 

その「対話」のやり方も書いてありました。

 

「ただ単に偉人伝を読むのではない。

柳井流の読書法は

『もし自分だったらどうするか?』

と考え、筆者と対話する」

これだけでも非常に参考になりませんか?

 

ここにはそれ以外の名著、名言が散りばめれてて

いました。

 

その一つ

 

「Be daring, Be first, Be different」

(勇敢に、誰よりも先に、人と違ったことを)

 

柳井氏の実家は洋服屋ですよね。

福山市の青山商事

長野市のアオキ

岡山のはるやま

 

当時一着10万円もする背広を

「一着29,800円!!」

と一気に郊外型店舗で急拡大していました。

 

当然知っていながら、それは目指さなかった。

 

「同じことをしていてはダメだ」

 

「Be daring, Be first, Be different」

(勇敢に、誰よりも先に、人と違ったことを)





その4 驚きの帝王学


 「暗黒時代」の中で

この本で一番衝撃的だったのは

25歳の時に父親からの通帳と印鑑を

預けられるのですね。

この「帝王学」がすごいですね。

 

ただこの本は他にはないくらい父親「柳井等」が

どこよりも正確に記述されているのですね。

この「禅譲劇」が美化されるのはいいですが、

どうも違う気がするのですね。

洋服業を任せたというのは聞こえはいいですが、

どうやら父親自身が洋服業に見切りをつけ

土建屋とし大成功したようなのですね。

ただどこの本にも書いていないことですが、

この等の兄「柳井正雄」がどうやら元ヤクザ

だったようです。

 

「正雄は戦中にヤクザ家業に手を染め、

敵対組織とのケンカ沙汰が原因で

投獄されたことがある。」

 

ドキッとする記述ですね。

これ上場公開を取り扱う証券会社の方なら

これすぐ気が付きますよね。

 

「身内に反社会勢力がいると上場審査で

はねられる」

 

のですね。

これは大丈夫だったのでしょうか。

反ユニクロ本にはこのあたり主張している方も

いるらしいですが、勝手なことは書けないので

これくらいでやめておきます。

 

話がそれましたが、父親の柳井等氏はなかなかの

実業家のようでした。

 

この記述も驚きます。

 

「等の定期預金は最終的に6億円になった」

 

すごいですね。

「ええか。失敗するんやったら俺が生きているうちに

せえよ。」

 

カッコイイですね。

1984年にユニクロ第一号店が開店した2か月後に

その等氏が脳溢血で倒れます。

その後は一切経営にはタッチしなかったようです。

 

 

ただユニクロが洋服のベンチャー企業であったことは

認めます。

でも裕福な資産家のお坊ちゃまであったことも

やはり認めざるを得ないでしょう。





その5 3年間で100店舗で融資可能か?


この本でたぶん金融機関の方が読んだら最も

興味深い箇所。

ユニクロ第一号店が1984年にできていてから

7年後、7年間で23店舗に拡大していた時。

 

柳井氏が

「3年間で100店舗」を掲げ

上場をテコに日本一そして世界一を

目指した時ですね。

メインバンクの広島銀行に8億円の融資を

求めたのに断られたのですね。

 

ちょうど1991年。バブル景気を終え、

世の中全体が傾きかけてきた時ですね。

 

私も不動産バブルを謳歌して、

不動産担保融資を実践していた時ですから

よく覚えています。

あの時は完全なる「担保主義」。

「キャッシュフロー重視」に方向転換したのは

ずっと先でしょう。

 

「3年間で100店舗にしますからお金貸してください」

 

でたぶん簡単には借りられないはずです。

しかもまだユニクロ自体もまだ単なる

「安売りの衣料チェーン」

だたったはず。

結果的に当時の広島銀行の柳田支店長が移動する

1993年6月まで続いたそうです。

 

結論的には支店をすっ飛ばして本店と掛け合った

柳井氏の美談(武勇伝?)として、

いろいろな書物にも書かれている箇所です。

でも銀行の体質をよく理解しているつもりですが、

支店のメンツ丸つぶれの「禁じ手」ですからね。

 

うまく行ったからよかったものの、

ユニクロそのものがつぶれていてもおかしくなかった

ところでしょう。

 

巻末に柳井氏の当時のことについて語っています。

 

「あの時、僕には銀行から融資を受けるという

選択肢がなかったが、今のようにベンチャーキャピタル

が存在していたらどうだったのだろう」

 

「おそらく株を差し出すのと引き換えに資金を

えていたろう。だがそれは経営権の一部を

売り渡すことと同義だ。

それで果たしてあの時に描いた未来図を

多い求めることができただろうか・・・」

 

でも融資がおりなかったら、ユニクロそのものも

今もなかったかもしれません。

 

広島銀行に提出した当時の財務諸表と

融資申込書を見てみたいですね。

 

「あなたが支店長だったら

1993年当時のユニクロに融資したか?」

 

すべての銀行とベンチャーキャピタルの

「生きた教科書」になるのでしょう・・・。

 




その6 100店舗計画はバクチか?



ユニクロの「100店舗計画」何度も読み返しました。

 

広島銀行の宇部支店長が

 

「あんたたちは俺をだますつもりか!」

と手に持っていたたばこを灰皿に押し当てて火を消して

それをそのまま投げつけた」

 

のですね。

 

3年で売上300億円。

さらに1000億円の長期計画も書いてあったそうです。

 

郊外のロードサイト。

敷地面積は500坪。そのうち売り場面積は150坪。

年間売上高想定3億円。

 

「売上高をまず120と想定する。

実際にはシーズンの変わり目ごとに値引き販売。

値引き分を20として売上を100に。

売上原価を60にできるとして

粗利益は40。

そこから販管費30を差し引けば10残る」

 

売上3億円を100とすると3000万円が

残ることになります。

 

その事業計画だけで8億円を融資可能かどうかは

今回広島銀行が取材に応じなかったそうなので

真意は分かりません。

 

柳井氏はこの時42歳。

血気盛んだったのでしょう。

妙になまめかしい記述なので

本当のことだと思います。

 

 

実際に3年後のユニクロは

店舗数90店舗。

売上高250億円、1店舗あたり2.8億円。

営業利益は22億円。

売上高の8.8%。

 

ほぼピッタリですね。

 

「計画通りに行ってはずなのに

なぜカネを貸さないのか?」

 

柳井氏は怒り心頭なのですね。

実際に1994年7月に広島証券市場に上場に

成功したのですが確かに危険な賭けだったのでしょう。

 

「年間30店舗もの出店を続けると

当然ながら出店資金が必要になる」

 

からですね。

しかしその賭けに勝ったのです・・・。

でも経営は博打ではないと私は思います・・・。





その7 澤田氏と玉塚氏



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上場後に、フリースブームを追い風に

快進撃を続けるのですが、

まず有名な役員が登場しますね。

 

伊藤忠出身の澤田貴司氏。

上智大学在学中はアメリカンフットボール部のキャプテン。

 

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もう一人は

旭硝子出身の玉塚元一氏。

慶應大学在学中はラグビー部でフランカーとして

大学選手権準優勝したこれもスポーツマン。

 

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二人のタッグでユニクロを急成長させた下りは

面白かったですね。

 

澤田氏が古巣の伊藤忠の時の室伏社長に

「今こそ伊藤忠も流通業に参入すべきだ!」

と直訴したくだりが面白い。

 

その後ユニクロに移り、副社長に。

 

柳井氏は本当に澤田氏に社長の座を譲りたかったのは

きっと本心でしょうね。

 

澤田貴司氏はその後面白いところで、

またファミリーマートの社長に。

 

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一方で、玉塚元一氏も有名ですね。

その後ローソンやロッテリアの会長にもなっていますから。

 

「どうしてこれだけ優秀な方でも

柳井氏は禅譲しなかったのだろう・・・」

 

考えながら読みましたね。

 



その8 泳げない者は沈めばいい



澤田貴司氏が行った

ABC改革「オール・ベター・チャンジ」

よりフリースが生まれ大躍進するのですが

ここはぜひお読みください。

ただ、この箇所は多くの「ユニクロ本」で称賛されている

箇所ですから説明はいいでしょう。

 

でも一方でこの本で衝撃的な記述。

 

「泳げない者は沈めばいい」

 

これは柳井氏が好んで使っていた言葉のようです。

これは柳井氏の言葉ではなく、マイクロソフトの

ビルゲイツが使っていたようです。

 

ビルゲイツはインターネットという破壊的な

イノベーションを起こしましたね。

それを社会に起きる「津波」だと言い

そこで生きるにはどうすればいいのかを

この言葉で説いたのだそうです。

 

「Sink or Swim」

 

「溺れたくなければ泳げばいい」という意味を

もっと厳しく和訳したのでしょう。

 

それを全店に配る紙に記載されていたのです。

 

慌ただしい急成長の中で居場所を無くした

古参幹部がこの言葉に衝撃を受けます。

 

柳井氏がまだ小学生だった頃から住み込みで

メンズショップ小郡商事に勤めていた浦利治氏。

柳井氏が再出発をした時は、

浦氏とたった二人だったのです。

 

優秀な澤田氏が入社してすぐさま

感じ取ったのですね。

 

浦氏は柳井氏にこうつげます。

 

「もう自分たちはついていけないと思います。

商売は分かりますが、経営はできないので」

 

それに対して柳井氏。

 

「僕もそう思います」

 

何て非情なんだ・・・

そう思いますが

 

「偽りなく思ったことをストレートに伝える」

 

これが柳井経営学なんだそうです・・・。




その9 佐藤可士和氏の登場



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2005年8月に玉塚氏が退任。

結果的に見ればロンドン進出と

中国進出の失敗の責任を取らされたような

感じですね。

「更迭」という書き方でしたから。

玉塚氏と柳井氏との経営上のバトルは

実に面白い。

玉塚氏が社長になって柳井氏が会長。

二人の路線が相対立するのですね。

 

「柳井氏が社内で打ち鳴らすグローバル化の

進軍ラッパ。

それに対して足元を固めようとする玉塚氏の

方針」

がどうしても食い違うのです。

 

「結局私はサラリーマン的な発想だったのですよ」

 

後日玉塚氏が述べています。

 

ユニクロの経営は柳井氏が社長として

全研を指揮する従来の形に戻ります。

 

その直後の2006年2月。

佐藤可士和氏と出会います。

 

柳井氏と16歳も違うのですね。

 

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 (佐藤可士和氏が手掛けたデザイン)

 

 

佐藤氏は2000年に博報堂を退職して

独立したばかり。

でもすでにクライアントに、ホンダを始め、

大塚製薬やキリンビール、NTTドコモと

日本を代表する企業があるトップクリエーター。

 

佐藤氏は1965年生まれですから

この時まだ35歳。

 

 

この佐藤氏とであった理由が面白い。

NHKプロフェッショナル仕事の流儀

を見てから。

 

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「FOMA N702 iD」

 

を柳井氏が見て感動したという記述。

 

「実は僕は携帯というものを使っていないのですよ。

でもこれは買いますよ。」

 

「これができるなら、ウチのグローバル戦略を

やってもらえないですか」

 

すごいですね。

この記述に驚きました。

 

柳井氏はこの若干35歳にグローバル戦略を

任せたのですね。

 

以来柳井氏と佐藤氏は現在に至るまで

毎週決まって早朝に30分話し合っているそうです・・・。




その10 世界戦略は始まったばかり



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日本のトップクリエーターである

佐藤可士和氏にブランド戦略を託したのですね。

 

ここの記述が一番面白かったところ。

 

真っ先に柳井氏に問うたのは

 

「ユニクロを無国籍のグローバルブランド

として打ち出すか、それとも日本初の

ブランンディングにするか」

 

アパレル業界では、

「ZARAはスペイン、H&Mはスエーデンが

生んだブランドだがいずれも本国の『色』は

打ち出していない。

アメリカのGAPもこれに近い。」

 

つまり世界で先行しているアパレルの巨人は

「無国籍」なのですね。

 

でも柳井氏は即答します。

「絶対に日本初のブランドですよ。」

 

それには「ユニクロとは何か」を

強く打ち出すことが必要だと。

 

二人で「服とは何か」を思索します。

もちろんアパレル業界で世界一になるための

戦略なのですね。

 

 

ここを突き詰めることができるというのは

まさに佐藤可士和さんが稀代の「翻訳家」と言われるだけの

類まれな力量なのでしょうね。

 

ユニクロの「6つの定義」

 

服装における完成された部品である

 

人それぞれにとってのライフスタイルを

つくるための道具である

 

つくり手ではなく着る人の価値観からつくられた服である

 

服そのものに進化をもたらす未来の服である

 

美意識のある超・合理性でできた服である

 

世界中のあらゆる人のための服、という意味での

究極の服である

 

「部品」や「道具」というのが、ファッション業界には

なかった発想。

 

恐ろしい男ですね。

柳井正氏は・・・。

 

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世界戦略は始まったばかり。

この男が佐藤可士和氏と手を組むことで

本当に世界一になるように思えてきました・・・。

 

(がんばれ 日本初のブランドシリーズ おしまい)












 

 






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